「ヴィトゲンシュタイン、再び」2013年2月27日 (水)

 「語ることのできないものごとついては、人は沈黙しなくてはな 
らない。」これは1921年に出たヴィトゲンシュタインの『論 
理哲学論考』の結論である。7つの命題集からなっている最後の7 
つめの結論である。その前の6つはそれぞれ説明が細部にわ 
たってなされているが、この7つめの命題はこの一つのセンテ 
ンスで終わっている。この世界には意味を見いだすことができな 
い。残されたのはただ「沈黙」である。ヴィトゲンシュタインは、 
その結論に従って、大学を去り小学校の先生になった。後にまたケ 
ンブリッジ大学に戻ってくる。

 この1920年代は、ヨーロッパで第一次世界大戦が終わっ 
て、前世紀までの啓蒙主義の終焉のなかで、新しい思想を模索した 
時代である。ハイデガー、サルトル、バルト、ブルトマン、それぞれ20 
世紀の思想を方向付ける著作を出している。それでもその時代的な 
動きのなかでの思想の方向付けなのであるが、ヴィトゲンシュタイ 
ンの『論理哲学論考』はそのような動きからは飛び抜けて、いまだ 
に消え失せない威光を放っている。啓蒙思想を基にした西欧の論理 
と意味の世界を「沈黙」をもって裁断したのである。

 この「沈黙」に対して、神はなお語っていると言って、1960 
年代、70年代に若い人の心を惹きつけたのがフランシス・ 
シェーファーである。『そこに存在する神』(The God Who Is 
There)が1968年で、『神の沈黙?』(He Is There and He Is Not 
Silent)が1972年に出ている。実存思想に影響されて放浪を始 
めたクリスチャン2世を、あのスイスの山のなかで、もう一度 
神の存在に目を向けさせた。『神の沈黙?』で、ヴィトゲンシュタ 
インの哲学の結論に対して、神は沈黙していないと提示した。

 そのインパクトは今でも私のなかに残っている。神は確かに語っ 
ている。沈黙はしていない。その意味でのシェーファーの功績とい 
うか、その向こうにあるまさにヴィトゲンシュタインの意味づけ 
(世界には意味がないと言ったヴィトゲンシュタインの意味)には 
注目してきた。しかし同時に、クリスチャンとしてはシェーファー 
のような取り上げ方しかできないのだろうとも思っていた。そんな 
思いに反して、N.T.ライトの注目作 Surprised by Hope 
で再度ヴィトゲンシュタインに出合うことになった。何とも驚きである。

 Surprised by Hopeは、クリスチャンは死んだら天国に行 
く、信仰を持って死んだら天国に行く、というクリスチャンの提言 
の背後にあるギリシャ哲学の影響、当然プラトン哲学とグノーシス 
主義の影響に対して、キリストの死者からの復活によって開かれた 
神の「新しい創造」の希望を展開している。その意味ではプラトン 
哲学がこの本の背景になっている。そのなかでヴィトゲンシュタイ 
ンのことが、忘れ去られた威光のように、何度も顔を出してくる。 
最初から最後まで顔を出している。

 なんと言ってもヴィトゲンシュタインはユダヤ人である。どこか 
でカトリックの信仰にも関わっていたようである。世界には意味を 
見いだせないとはっきりと言っているが、宗教と聖書のことはユダ 
ヤ人特有な格言集のように語っている。旧約聖書は頭が付いていな 
い胴体のようなもので、新約聖書がその頭だというようなことを 
言っていると、N.T.ライトが楽しそうに引用している。復活 
を信じられるのは愛だとも言っているという。一世紀のユダヤ教を 
基に聖書全体を読み直そうとしているN.T.ライトには、ヴィ 
トゲンシュタインの哲学は、シェーファーには見えなかった光を 
放っているようである。

 そうすると先のヴィトゲンシュタインの「沈黙」も意味づけが異 
なってくる。『論理哲学論考』が7つの命題集からなっている 
が、その最初の命題が「世界は成立するものごとの総体である。」 
そして最後が「語ることのできないものごとについては、人は沈黙 
しなければならない。」N.T.ライトはその7つの命題の 
世界が、創造の7の日間に対応するかのように読んでいる。 
「世界の総体」とは創造の初めであり、「沈黙」は安息に入った神 
の沈黙のようにみる。当然ヴィトゲンシュタインは、神を抜きにし 
た世界の有り様をそのまま語っている。その最後は、沈黙以外にな 
い。その世界を創造主である神の目から見たときに、それは神の安 
息となる。

 そしてN.T.ライトの結論は、この沈黙の後の世界を語るこ 
とができることが私たちの「希望」とみる。キリストの復活のゆえ 
に新しい創造が始まった。単に死んだらば天国に行くということで 
は終わらない。新しい創造の世界での務めが委ねられている。ヨハ 
ネ福音書20章と21章の復活の後の世界である。その世 
界を語りうるクリスチャン哲学者の到来をも期待している。

 N.T.ライトの読み方がヴィトゲンシュタイン理解にあって 
いるのか判断できない。同時にキリスト者しか読めない哲学の世界 
もあることが分かる。大村晴雄先生も、専門であるヘーゲルの『論 
理学』の論理・ロギークをあのヤコブ・ベーメをとおして、ヨハネ 
福音書の冒頭の「ことば・ロゴス」の学と読んでいく。哲学の世界 
をキリスト者の目で見ていくことを可能にしている。

 Surprised by Hopeでキリストの復活による「希望」の豊か 
さに驚かされるが、同時にヴィットゲンシュタインの登場にも驚か 
される。その取り扱いと意味づけは、何かを刺激して止まないよう 
である。

上沼昌雄記
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「「ヴィトゲンシュタイン、再び」2013年2月27日 (水)」への2件のフィードバック

  1. 3月11日を迎えました。
    3人の遺族代表の御挨拶の言葉が全文で中日新聞に載っておりました。

    ひとりは、原発で故郷と農地をうしなった、農民。
    ひとりは、妻子を家屋倒壊でなくした若い男性。
    ひとりは、津波が襲う中、母をうしなった高校生です。

    大切な家族を亡くした私たちにとって、この二年という歳月は1日1日を
    生きることがこんなにも大変なことだったのかと、過ぎ行く時間の重さを感じ続けた二年でした。
    「あの人の生きた日々は幸せだっただろうか。」
    「自分は何のために生きているのだろう。。。」

    何度も同じ疑問が浮かんでは、そのたびに息がつまり、答えを出せずにいました。。。

    二月から三月。
    私は大好きな末松先生のメッセージもうまく聴き取れなくなってしまいます。
    動きも鈍くなにか判断しようにもぱっぱっとできず、うずくまってしまいます。

    それが喪失のトラウマだと気づいたのはごく最近です。
    それでいいと思っています。
    時間がかかっていいとおもっています。
    泣きたいときに泣き、できるときに動く、それでいいのです。
    神様の光があるから、生かされています。

    この動けない季節、楽しみは昔聴いた音楽を聴きなおすことです。
    そして、そういう中で、自分の暗い過去に静かな光が届き、過去のひとつひとつの風景が神様の光でつながっていくのをみて、感動しています。

  2. 吉川さん、4月になりました。お元気になられているでしょうか。苦しいなかを通られてもしっかりご自分を見つめられていることが分かります。祈りつつ。

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