「男性集会」2013年5月29日(水)

 「透明な男性、責任を取る男性」というテーマで、過ぎる土曜 
日、仙台の5つの教会から20名の男性が集まって、一日 
男性集会を持ちました。若い人も何人も参加してくれて平均年齢が 
ぐっと下がりました。見回して、ここには女性はひとりもいないで 
すねと、教会で女性の多い集会に慣れている男性の本音が出まし 
た。女性にはできない男性だけの秘密結社として、ここで出たこと 
は一切外には出さないという約束で集会が始まりました。(唯一の 
例外はウイークリー瞑想ですが。)

 ローマ書7章で、パウロが律法でもなく、他の人でもなく、 
ただ自分のうちに住む罪をしっかり捉えています。妻が悪いとか、 
子どもが悪いとか、教会が悪いとか、牧師が悪いとか、他の人に責 
任をなすりつけるのではなくて、自分の罪をしっかりと受け止める 
ことで、透明にされるのです。神の書物には罪は隠されないで明ら 
かにされています。「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生 
まれ」(マタイ1:6)とあるように、聖書は罪の歴史 
でもあるのです。

 「私の罪の歴史」をそれぞれ思い巡らして、ノートに書いていた 
だきました。それはまさに個人的なことなので、それを話す必要は 
ないのですが、その作業をしたことで気づかされたことを分かち合 
う時を持ちました。私の右手に26歳の若者が、左手に81 
歳の方が座っていました。どちらから始めるかお二人で決めてくだ 
さいと言いましたら、81歳の年配の方が、私からと言ってた 
めらいもなく立ち上がってくれました。兄弟のことを許していない 
自分の罪の歴史を、促されるように語りました。一同厳粛な思いに 
させられました。それはまさに分かち合いの雰囲気を導いてくれる 
ものでした。皆どこかで同じことを経験しているからです。

 『色彩を持たない多崎つくる、、、』という村上春樹の本がでま 
した。自分に色彩、すなわち個性がなく、ただ空いた空間のような 
心だけで、全く取り柄のないと思っている36歳の男性が、自 
分の見つめ、自己を確立していくなかで、自分のなかにどうするこ 
ともできない「濃密な闇」に気づいていきます。あたかもその闇が 
友人を死に追いやり、あるいは事実絞殺してしまったかのような現 
実に直面していきます。色彩がないと思っていても、透明ではない 
のです。色はないのですが、透き通っていないのです。自分の闇に 
気づいて、認めていくことで、色がついてくるのですが、心は透き 
通ってきます。

 他の人ではなく、自分の罪の歴史を認めることができると、他の 
人への思いも明確になります。すなわち、自分のために人生を生き 
ているのではなくて、他の人、妻のため、子どものため、教会のた 
め、社会のために自分が生かされていることが分かります。それが 
「律法の要求が全うされるため」(ローマ8:4)で 
す。自分はどうあっても構わないのです。他の人が生かされるなら 
ば、それが生きていることの目的なのです。取りも直さず、イエス 
の歩まれたことです。

 妻のため、子どものため、家族・親族のために祈る時を持ちまし 
た。祈っていることは言わないで、ただ黙って祈り続けるのです。 
それが男性の責任です。どんなことが子どもに起こっても、黙って 
祈り続けるのが父親の責任です。さらに、自分のことを好ましく 
思っていない人のため、あるいは、自分の罪で傷つけてしまった人 
のためにも祈る時を持ちました。「記憶を隠すことができても、歴 
史を変えることはできない」という『色彩を持たない多崎つく 
る、、、』で何度か出てくる言葉のとおり、誰もが罪の歴史を背 
負っています。自分の罪で苦しめられ、苦しめてきた人のためにも 
祈ることができます。それは罪を赦された者の責任です。

 最後に兄弟のためにも祈る時を持ちました。ふたりひと組になっ 
て互いのために祈りました。まさに私たちは兄弟のために生かされ 
ているのです。そしてまとめとして、神がわざをなそうとするとき 
には、こちらの思いとは関係なしにことが進み、自分の平安とか、 
祝福とかといっているどころではなくて、あのヨナのように、神に 
振り回されるときがあるのではないでしょうかと締めくくりました。

 何度も賛美をしました。男性20名で、声高らかに主を讃え 
るその響きは、会場を突き破りそうなものでした。誰もがこれ以上 
大きな声を出せないほど、腹の底から思い切って歌い上げていまし 
た。その姿は奥様たちに見せたいほどのことでした。しかしその賛 
美の余韻は男性たちの心に残って、それぞれの家庭と家族のなか 
で、新しい歌を生み出していくと信じることができます。

上沼昌雄記

「聖餐式」2013年5月23日(木)

 この5月2日で104歳になられた大村晴雄先生 
を、昨年の11月にお訪ねした同じメンバーで、過ぎる月曜日 
に宇都宮の施設に訪問しました。石神稔牧師が聖餐式の準備をして 
きてくれました。前回の聖餐式も大変喜ばれたという、別の訪問者 
からの報告も聞くことができました。

 寝たままですが、大村先生は顔つやも良く、すでに聖餐式の心備 
えをしているようでした。石神牧師が聖餐式の準備をしているとき 
に、大村先生に話しかけました。今朝から待っていたと言われまし 
た。それだけしっかりしたものを感じることができました。また、 
息子さんに聖書を読んでもらって勉強していると、前回の会話 
(「上沼さん、いま何を勉強しているの?」2012年11月16 
日)の続きをご自分の方から話されました。

 耳元に語りかける石神牧師の文語訳での式文にじっと耳を傾けて 
いました。そして、アーメンとはっきりと合唱されました。それが 
信仰者として当然であるかのようにアーメンと言われました。むし 
ろこちらの方がつられるほど力強いものでした。多少心配をしたの 
ですが、パンもぶどう液もご自分で召し上がりました。もちろん自 
分で飲み込めるかどうかヘルパーさんに確認をしていたのですが、 
それも当然であるかのように、渡されたパンとぶどう液を召し上が 
りました。

 賛美歌291番「主にまかせよ、ながみを」を一緒に賛美しま 
した。大村先生はすでに目が見えないので歌集を追うことはできな 
かったのですが、私たちの賛美に大きな声で合唱されました。それ 
も当然であるかのように、大声で歌われたので、こちらがつられる 
ほどでした。

 そして恵みを感謝するようにうなずきながら、しばらく沈黙の世 
界に入られました。パンとぶどう液にあずかることで、キリストの 
死と新しい契約によって生かされている事実をゆっくりと味わって 
いるのが分かります。過去のことがいま大村先生のなかに実現して 
いて、その事実に動かされているかのようでした。聖書の過去の出 
来事が生きているのです。キリストの事実はそのようなものなので 
す。その現実を見ることになりました。

 その後、小泉一太郎氏の奥様が作られたおまんじゅうとお茶を美 
味しそうに召し上がっていました。前回は私たちに何を勉強してい 
るのかと聞かれたのですが、今回はご自分が勉強していることから 
疑問に思っていることを聞かれて来られました。創世記1章と 
2章のこと、真理と永遠のことを聞いて来られたのです。 そ 
の質問を、私たちの来訪に合わせて、ずっと考えられておられたよ 
うです。 石神牧師が宿題として受け止めてくれましたので 
ホッとしました。

 前回の訪問の時よりしっかりとされているようで、驚きと同時 
に、もたもたしている私たちの方が励まされたことでした。それ 
は、キリストの現実を聖餐式で確認をされて、御霊の思いが大村先 
生を支配しているからなのだろうなと思わされます。何かことばを 
失うような、まさにこれが聖餐式なのだと実感させられました。

上沼昌雄記

「宇治での『ローマ書を読み直す』セミナー」2013年5月15 日(水)

 「ローマ書を読み直す」というタイトルの下に、ローマ書に響い 
ているパウロの息づかいを少しでも感じ取ることができればと願っ 
て、京都の宇治のカルメル会黙想の家で、11名の牧師たち 
と、静まり、ローマ書を読み、語り合いました。新緑の森に囲まれ 
たこの一角は、忙しい牧師たちには、心にしばしの落ち着きを取り 
戻すことができる場です。静まればウグイスの鳴き声が私たちを迎 
えてくれています。

 ローマ書に関しては、牧師たちはすでにある箇所が好きで、自分 
で学んで、説教をしているのではないかと想像します。それでも 
ローマ書全体をそのまま読むことはしていないのではないかと思 
い、ローマ書をともかく読み合いましょうと、ひとり1章ごと 
に輪読をしました。30分ぐらいで終わるのかと思ったのは全 
くの誤算でした。1時間10分かかりました。パウロから 
この手紙を受け取った人たちは、誰かが代表して皆の前で読んで、 
後の人はただ聞いていただけです。書かれたがギリシャ語で読んで 
もそれほどかかるのかと、変な関心をしたものです。それ以上にギ 
リシャ語で書かれたものを聞いた人たちは、理解できたのだろうか 
と、多少おかしな疑問をも持ちました。単純には、読んで分かった 
ので、さらに回覧され、写本され、残されていったのだと思います。

 しかし、手元にある日本語の聖書をそのまま読んでも、正直分 
かったような、分からないような気持ちになります。無理に分から 
せようとして、チェーン式聖書のように、教理的部分と実践的部分 
とに分けて、こちらの必要に合うように何とか捉え直そうとしてい 
るのが現状なのかも知れません。パウロがどのような背景を持っ 
て、どのような意図を持って、さらにどのような情熱を持って書い 
たのかは、すでに文字に追われて、感じ取ることも読み取ることも 
できなくなっています。単純に、元のギリシャ語で書かれているよ 
うに訳し直してみたらばどのようになるのだろうかと思わされる部 
分があります。

 3章はそのためにいくつかの課題を提供してくれます。2 
節で、ユダヤ人の「不真実」(別訳「不信仰」)によって、「神の 
真実が無に帰することになるのでしょうか」とパウロが論じていま 
す。「神の真実」とはユダヤ人の不信仰に対して、「神の信仰」、 
すなわち、「神の真実」です。「信仰・真実」と訳されるピスティ 
スが使われています。そしてそれに呼応するかのように、22 
節で「イエス・キリストのピスティス」が出てきます。「イエス・ 
キリストを信じる信仰」と訳されているのですが、「神の真実」に 
たいして「イエス・キリストの真実」とそのまま取ったらどのなる 
のでしょうかと、提案してみました。最近の英語訳聖書でも脚注に 
取り入れられていることなので、可能性はあるのです。視点が信じ 
る自分の信仰ではなく、キリストの真実の歩み、それを促した神の 
真実に向けられるからです。それは、視点の転換になります。

 さらに27節には3回「原理」と訳されていることばが 
あります。それは前後でパウロが語っている「律法」と同じことば 
なのです。それで、そのまま「律法」と訳して読んでみたらどうな 
るでしょうかと提案してみました。「信仰の律法」によって取り除 
かれた「誇り」のことをパウロは問題にしているのです。どこかに 
「信仰の原理」があって、取り除かれたのではありません。それは 
31節の、信仰によって「律法を確立することになる」と対応します。

 「ローマ書を読み直す」試みは、そのパウロが持っているユダヤ 
性を前面に出して読み直してみたら、どのようなことが浮かび上 
がってくるのですかという問いなのです。「神の真実」にたいして 
ユダヤ人の「不真実・不信仰」の物語があって、「イエス・キリス 
トの真実」が浮かび上がってくる物語です。イスラエルの不信仰の 
物語が、パウロの背景なのです。その不信仰のひとつひとつの行為 
と歩みがキリストに関わってきます。その関わりを語ることで、キ 
リストの真実の物語が生きてきます。ローマ書は信仰義認の教理の 
ための書物ではないのです。イスラエルの不信仰と、神の真実と、 
イエス・キリストの真実の物語が凝縮している書です。そんな流れ 
にパウロが押し出されて書いたのです。

 そんな思い、息づかいを少しでも感じ取ることができればと願い 
ます。そのパウロの息づかいは、聖書は神の霊感によって書かれて 
いますので、神の息づかいでもあります。自分の信仰のあり方だけ 
に思いが向いてしまいがちですが、神の真実の息づかいに思いが向 
き、その神の真実の物語のなかに組み込まれたながら、もっと安心 
して、ゆったりと信仰生活を送ることができるのではないかと、参 
加者と少しでも分かち合うことができたかなと思わされています。

上沼昌雄記