「宇治での『ローマ書を読み直す』セミナー」2013年5月15 日(水)

 「ローマ書を読み直す」というタイトルの下に、ローマ書に響い 
ているパウロの息づかいを少しでも感じ取ることができればと願っ 
て、京都の宇治のカルメル会黙想の家で、11名の牧師たち 
と、静まり、ローマ書を読み、語り合いました。新緑の森に囲まれ 
たこの一角は、忙しい牧師たちには、心にしばしの落ち着きを取り 
戻すことができる場です。静まればウグイスの鳴き声が私たちを迎 
えてくれています。

 ローマ書に関しては、牧師たちはすでにある箇所が好きで、自分 
で学んで、説教をしているのではないかと想像します。それでも 
ローマ書全体をそのまま読むことはしていないのではないかと思 
い、ローマ書をともかく読み合いましょうと、ひとり1章ごと 
に輪読をしました。30分ぐらいで終わるのかと思ったのは全 
くの誤算でした。1時間10分かかりました。パウロから 
この手紙を受け取った人たちは、誰かが代表して皆の前で読んで、 
後の人はただ聞いていただけです。書かれたがギリシャ語で読んで 
もそれほどかかるのかと、変な関心をしたものです。それ以上にギ 
リシャ語で書かれたものを聞いた人たちは、理解できたのだろうか 
と、多少おかしな疑問をも持ちました。単純には、読んで分かった 
ので、さらに回覧され、写本され、残されていったのだと思います。

 しかし、手元にある日本語の聖書をそのまま読んでも、正直分 
かったような、分からないような気持ちになります。無理に分から 
せようとして、チェーン式聖書のように、教理的部分と実践的部分 
とに分けて、こちらの必要に合うように何とか捉え直そうとしてい 
るのが現状なのかも知れません。パウロがどのような背景を持っ 
て、どのような意図を持って、さらにどのような情熱を持って書い 
たのかは、すでに文字に追われて、感じ取ることも読み取ることも 
できなくなっています。単純に、元のギリシャ語で書かれているよ 
うに訳し直してみたらばどのようになるのだろうかと思わされる部 
分があります。

 3章はそのためにいくつかの課題を提供してくれます。2 
節で、ユダヤ人の「不真実」(別訳「不信仰」)によって、「神の 
真実が無に帰することになるのでしょうか」とパウロが論じていま 
す。「神の真実」とはユダヤ人の不信仰に対して、「神の信仰」、 
すなわち、「神の真実」です。「信仰・真実」と訳されるピスティ 
スが使われています。そしてそれに呼応するかのように、22 
節で「イエス・キリストのピスティス」が出てきます。「イエス・ 
キリストを信じる信仰」と訳されているのですが、「神の真実」に 
たいして「イエス・キリストの真実」とそのまま取ったらどのなる 
のでしょうかと、提案してみました。最近の英語訳聖書でも脚注に 
取り入れられていることなので、可能性はあるのです。視点が信じ 
る自分の信仰ではなく、キリストの真実の歩み、それを促した神の 
真実に向けられるからです。それは、視点の転換になります。

 さらに27節には3回「原理」と訳されていることばが 
あります。それは前後でパウロが語っている「律法」と同じことば 
なのです。それで、そのまま「律法」と訳して読んでみたらどうな 
るでしょうかと提案してみました。「信仰の律法」によって取り除 
かれた「誇り」のことをパウロは問題にしているのです。どこかに 
「信仰の原理」があって、取り除かれたのではありません。それは 
31節の、信仰によって「律法を確立することになる」と対応します。

 「ローマ書を読み直す」試みは、そのパウロが持っているユダヤ 
性を前面に出して読み直してみたら、どのようなことが浮かび上 
がってくるのですかという問いなのです。「神の真実」にたいして 
ユダヤ人の「不真実・不信仰」の物語があって、「イエス・キリス 
トの真実」が浮かび上がってくる物語です。イスラエルの不信仰の 
物語が、パウロの背景なのです。その不信仰のひとつひとつの行為 
と歩みがキリストに関わってきます。その関わりを語ることで、キ 
リストの真実の物語が生きてきます。ローマ書は信仰義認の教理の 
ための書物ではないのです。イスラエルの不信仰と、神の真実と、 
イエス・キリストの真実の物語が凝縮している書です。そんな流れ 
にパウロが押し出されて書いたのです。

 そんな思い、息づかいを少しでも感じ取ることができればと願い 
ます。そのパウロの息づかいは、聖書は神の霊感によって書かれて 
いますので、神の息づかいでもあります。自分の信仰のあり方だけ 
に思いが向いてしまいがちですが、神の真実の息づかいに思いが向 
き、その神の真実の物語のなかに組み込まれたながら、もっと安心 
して、ゆったりと信仰生活を送ることができるのではないかと、参 
加者と少しでも分かち合うことができたかなと思わされています。

上沼昌雄記
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「「宇治での『ローマ書を読み直す』セミナー」2013年5月15 日(水)」への1件のフィードバック

  1. 「イスラエルの不信仰の物語が、パウロの背景なのです。‥‥ローマ書は、イスラエルの不信仰と、神の真実と、イエス・キリストの真実の物語が凝縮している書です。」

    ほっと安心する空気が伝わってきています。

    「神の真実の息づかいに思いが向き、その神の真実の物語の中に組み込まれながらもっと安心して、ゆったりと信仰生活を送ることができるのではないか。。。」

    日々、生活していますと、私の不信仰や不誠実さが生活の中に出てきてうめいてしまいます。 どうにもならない自分を見ます。また状況や相手の存在ももそのように見てしまいます。 そのうめきの中にあって、そんな自分であっても、神様の真実に目が向くとき、神様御自身が希望となって、 立ち上がる力が不思議にわいてきます。とてもゆっくりで時間がかかりますがわいてきます。

    どうにも悲しくて、「どうしてですか?」と神様に怒っても、何がなんだかわからない時間が長く経っても 神様とイエス・キリストの真実というゆるぎないものによって、何度も起こされています。

    自分がどこまでいっても不完全で、わかったわかったといっても、またわからなくなり、混乱してしまう。何がおこっているのかちっともわからない、そんなところを通されます。

    わかるということは、わかっていないことがまだまだあることがとわかることだよといった先輩の言葉が身にしみています。

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