「記憶と歴史、そして巡礼」2013年6月24日(月)

 「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり 
沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない。」 
村上春樹の新刊で、主人公がガールフレンドからいわれた言葉で 
す。すごいことを言う女性もいるものだと思うのと同時に、これは 
もしかしたら女性でなければ言えないことなのかも知れません。主 
人公が抱えている問題を直感的に感じ取って、「記憶をどこかにう 
まく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても」、 
「それはきっと危険なことよ」と言い放つことができるのです。

 その言葉は、しかし、あたかもこの小説のテーゼのように、かつ 
ての友人と話すときも繰り返されています。「記憶を隠すことがで 
きても、歴史を変えることはできない」と、主人公はガールフレン 
ドの言葉を思い出して、そのまま口にしています。さらに、「記憶 
に蓋をすることはできる、でも歴史を隠すことはできない。それが 
僕のガールフレンドが言ったことだ」と、そのまま告げています。

 テーゼというと大げさなのですが、何度か読んでいるうちに、こ 
のガールフレンドの言葉が物語を構成していることが分かります。 
忘れてしまった、あるいは、忘れようとしていた記憶が、その人の 
人格をも食い尽くしてしまうのです。その過去の記憶を引き起こし 
た出来事の歴史を誰もが負って生きています。主人公とかつての完 
璧な無垢な仲間だと思っていた他の4人も、消すことのできな 
い歴史で生きています。

 そんな過去を辿る旅に主人公が出かけていきます。誰もが避けら 
れない、魂の旅路です。そうすることが人生であることが定まって 
いるかのような巡礼です。人生で傷を負い、また傷を負わせてしま 
うことが避けられないことであって、その記憶を辿ることで人生の 
意味を感じ取っていく旅路であり、巡礼です。そこで見いだすので 
す。人は「むしろ傷と傷とによって深く結びついているものだ。痛 
みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているものなのだ」と。

 記憶は神の所有物と前に書きました。神の下に生きている者に 
とって、それは紛いもなく自分の記憶なのですが、同時に神のもの 
でもあります。ですから神は記憶を通して私たちに働きます。それ 
は痛みを伴う赦しといやしをもたらします。どのような過去であっ 
ても、それをもたらした罪を神はキリストにあって処罰していま 
す。それゆえに、キリストにあるものは誰も罪に定められることは 
ありませんと、言えます。

 人を傷つけ、傷つけられたことがあります。日本への旅を繰り返 
すなかで、少しでもその記憶に触れることになります。そのままで 
は「危険なこと」になりかねません。心を腐らせてしまいます。キ 
リストにある赦しを無にしてしまうことになります。魂の旅路は厳 
しいものです。巡礼は楽ではありません。しかし、それがなければ 
赦しを生きていることになりません。

 主人公は言います。「悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を 
地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない」と。

上沼昌雄記

「反哲学! 反神学?」2013年6月14日(金)

 札幌の駅の西口を出たところに紀伊國屋書店があります。先週札 
幌から道東に向かうときに立ち寄りました。「大反響! いま、売 
れてます」というキャッチフレーズで、村上春樹の新刊のように山 
積みにされていたわけではないのですが、こんもりと積み重ねられ 
ていた木田元著の『反哲学入門』(新潮文庫)が目に留まりまし 
た。「哲学とキリスト教の深い関係」という章があって、興味を注 
がれて購入しました。

 北海道の東の外れまでと、そこから東京を経由して大阪までの長 
い列車の旅があったのですが、何かを読むよりも車窓から景色を眺 
めながらぼんやりしていることが多くて、読み切れなかったのです 
が、猛暑に襲われている大阪で読み切りました。大病の後に編集者 
に誘われるように、話をしたものが雑誌『波』に連載され、それが 
文庫本にまとめられたのです。哲学者が 長年考えてきたことを、 
肩の力を抜いて語っているので、このように哲学を語ってくれたら 
分かるよな、と言いたくなるものです。

 と言っても、これは「哲学」入門ではなく、「反哲学」入門なの 
です。ハイデガーを専門にしている著者が、その前のニーチェから 
始まる哲学を、その前の西洋の哲学に対しての「反哲学」と位置づ 
けているのです。しかし、この位置づけが逆に、哲学がどのような 
ものなのかを浮き彫りにしています。「哲学は欧米人だけの思考法 
である」と1章で言いのけているのですが、それでは日本人 
の、東洋人の思考法は哲学ではないのかと問いかけられます。ま 
た、日本人が哲学をしていると思うのは大いなる誤解になりそうです。

 「古代ギリシャで起こったこと」という2章は、ソクラテ 
ス、プラトン以前のことに触れてきて、その時にはオリエントでは 
バビロンの捕囚とそれからの帰還が起こっていたときであると思わ 
されて、神の民への神の計画と、後に新約聖書がギリシャ語で書か 
れていくことになる道筋がどこかで結びつくための備えがなされて 
いたのだろうかと、神に聞いてみたいところです。

 そんな思いを見越すかのように3章が「哲学とキリスト教の 
深い関係」となっているのです。プラトンのイデア論は、どうも古 
代のギリシャ哲学が世界のありのままを捉えようとしてものとは異 
なって、普遍的な理念を唱えることで、その理念とキリスト教の神 
理解とが結びついてきたと見ているようです。「キリスト教は民衆 
のためのプラトン主義にほかならない」というニーチェの有名なこ 
とばが出てくるのです。トマス・アクィナスの『神学大全』は、 
「アリストテレスートマス主義によるキリスト教教義体系」となる 
のです。当然宗教改革があるのですが、著者はこの項目のなかでデ 
カルトまで取り扱っています。哲学と神学が重なり合ってと言うよ 
り、哲学の基本理解、すなわち理性による知的体系を神学が受け継 
いだと言うことになるのだと思います。

 次の4章で啓蒙思想の背景である「近代哲学の展開」を語っ 
ています。イギリスの経験主義とカントとヘーゲルによるドイツ観 
念論ですが、何とも手に取るように語ってくれるので、カントと 
ヘーゲルが身近になります。しかし、この項目に関しては大村晴雄 
先生の『近世哲学』を読まなければ何かをミスすることになりそうです。

 そして5章で「反哲学の誕生」を語るのです。それはニー 
チェの登場によるのですが、当然2千年のヨーロッパの理性中 
心主義の限界を見越してのことです。後の世界史で起こる二つの世 
界大戦とホロコーストを見越してのことです。当時はほとんど理解 
されなかったニーチェが今にいたって受け入れられてきています。 
著者は最後に「ハイデガーの20世紀」ということで、ニー 
チェに始まる反哲学の今日的意味を明確にしています。「ハイデ 
ガーの思想は、ナチズムと切り離して考えることはできない」と深 
刻な問題を取り上げています。

 「逃走」「解体」「脱構築」「ポストモダン」などが叫ばれてい 
る現代の思想圏の様相は、まさに「反哲学」なのですが、それはな 
お根源を問う試みであるとも言えます。すなわち、哲学が本来問題 
にしている存在そのものの問いであるのです。それに対して、イデ 
アという理念と原理で2千年の西洋の哲学が築き上げられてき 
たのですが、それは「哲学とキリスト教の深い関係」と言われてい 
るように、神学の歴史でもあるわけです。「反哲学」は「反神学」 
にもなるのです。

 それは理性で築き上げられてきた2千年の西洋の神学の枠を 
取り外して、神学の根源である聖書を聖書の世界で読み直していく 
ことになります。旧約聖書から始まる聖書の世界を読み直していく 
作業です。ギリシャ哲学の世界から聖書を見ていたことから、旧約 
聖書から聖書全体を捉え直していくことです。聖書の歴史の流れに 
沿って読み直すことです。結構厳しい作業です。2千年の西洋 
の神学の流れで身に着けてしまっている二元論のようなギリシャ的 
な考えが、聖書理解に深く染みついているからです。「反哲学」と 
言えるならば、「反神学」を意識して聖書に直面しなければならな 
いのです。

上沼昌雄記