「チェーホフを読む」2013年7月26日(金)

 最上川の隠れ家の近くで農業を営みながら小説を書いている方と 
知り合って、良く一緒に温泉に入ったり、お蕎麦を食べに行ったり 
しながら、小説の話から、宗教と聖書の話をします。若いころは放 
浪をしていて、跡を継いで農業をし出したのは50代になって 
からだというのですが、その放浪をしていたときの話も興味深いも 
のです。

 小説の話といってもこちらは村上春樹一辺倒で、あきれられてい 
るのですが、この方はチェーホフが好きで、村上春樹は「俺は駄目 
だ」と平気でいうのです。土の匂いがしないというのです。また、 
チェーホフの作品には当時のロシアのキリスト教の状況が書かれて 
いると言います。ですから読むようにと勧められていたのですが、 
真剣に読むところにはいけませんでした。

 それで前回、姪御さん夫婦が営んでいるイタリア料理店で食事を 
しているときに、チェーホフの二つの作品を読んで、感想文を書く 
ように言われました。『チェーホフ全集』(中央公論社)の10 
巻のなかの「百姓たち」と「殺人」の二つです。美味しいイタリア 
料理をいただいていることもあって、また良い機会と思って同意し 
ました。同時に交換条件を出しました。村上春樹の初期の作品であ 
る『羊をめぐる冒険』を読んでいただいて、同じように文章を書く 
というものです。

 それでチェーホフの「百姓たち」を何度か読んで、さてどのよう 
なことが書けるのか、戸惑っているところです。また、この農民作 
家と呼んで良いのかも知れませんが、この方があえて「百姓たち」 
を勧めてきた意図は何なのかと思わないわけにもいかないのです。 
タイトルは「百姓たち」ですが、まさに当時の宗教色、すなわち、 
キリスト教がそのまま出ているもので、それを抜きにしては何も語 
れないのです。

 そんな思惑があるのですが、実は村上春樹は結構しっかりと 
チェーホフを読んでいます。村上春樹の作品はロシア語にも訳され 
て読まれているのですが、チェーホフが読むことになるかどうか 
は、想像の世界ですが、興味深いです。例の『1Q84』で 
チェーホフの作品『サハリン島』の話が出てきます。その中に登場 
するギリヤーク人のことを書いた文章を朗読する場面があります。 
その件は12ページに及んでいます。それからしばらくして 
『1Q84』には拳銃が出てきます。その場面でチェーホフの言 
葉が使われています。「物語の中に拳銃がでてきたら、それは発射 
されなければならない、と」

 そのような関わりで村上春樹は、チェーホフの作品に関して「無 
駄な装飾をそぎ落とした小説」と言っているのですが、それは「百 
姓たち」にも当てはまりそうです。モスクワで働いていた男性が病 
気になって、治療のためにお金も使い果たして、妻と娘を連れて実 
家に帰ってきて、そこで一年を過ごす話です。そして一年後にその 
男性は亡くなって、妻が娘を連れてモスクワに戻るところで終わっ 
ています。

 実家に戻ってきても彼らを養うほどの余裕は全くないのが現状で 
す。その状況はまさに「百姓たち」の現実なのですが、そのなかで 
この男性の妻の信仰が結構しっかりと描かれています。しかも、そ 
の信仰を肯定的に描いているのか、否定的に描いているのか、その 
辺は読者にまかされているかのようです。それ以前に、その「百姓 
たち」の状況を描くことが目的なのか、この妻の信仰を描くことが 
目的なのか、何度か読んでいるうちに、後者なのかなと思わされと 
ころがあります。

 あるいは、全く「百姓たち」の現状にモスクワから帰ってきた息 
子の嫁の信仰を置くことで、当時の社会の現状、都会と田舎、信仰 
と無信仰、病と死を、まさに医師として小説家として、それこそ 
「無駄な装飾をそぎ落として」描いているかのようです。ただその 
そぎ落とし方がチェーホフ一流の皮肉と諧謔が込められています。 
妻の信仰をさすがと思って描いているかと思うと、結局は「百姓た 
ち」とそれほど変わっていないという落ちが付けられているかのよ 
うです。

 それは身動きができない現状、社会的でも、個人的なことでも、 
宗教的なことでも、ともかくどうにも動きがとれない状態をそのま 
ま描くことで、そのままでは小説としての色合いがないので、諧謔 
と皮肉を込めることで、何とか少しでも風通しを良くしようとして 
いるかのようです。何か最もらしいイデオロギーをかざしているの 
でも、教育的な訓戒を垂れているのでもなくて、現状を描きながら 
どこかで笑いたくなるようなズレを置くことで、登場人物と共に現 
状を受け止めようとしているかのようです。

 その辺がチェーホフが多くの人に愛されている理由なのかなと、 
「百姓たち」を読んで、あるいは、読まされて到達したところで 
す。それは結構大きなことです。どんなに信仰を掲げても、この地 
上での現実として、どうにも身動きの取れない状況はいつも経験し 
ます。同時にその現状を見つめていくと、どこかに皮肉を込めて笑 
いたくなるようなズレが浮かび上がってくることがあります。 
チェーホフはそれをそのまま描くことで乗り越えようとしたのかも 
知れません。そういえば村上春樹もどこかでどうにもならない現状 
を、ほんの少しの隙間をみつけて入っていくことで、次の小径を探 
し出そうとしているのかも知れません。身動きの取れない状況、特 
に宗教的な意味での行き詰まり、それはそんなかけ離れたことでも 
ないのかも知れません。

上沼昌雄記
広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中