「人はなぜ変わらないのか、あるいは、変わるのか」2013年 7月22日(月)

 シカゴからドライブして帰ってくるのにどうしても3日かか 
ります。景色を眺めながら妻と止めどない話をします。青空に楽し 
そうに浮いている雲を眺めながらワイオミング州を通り過ぎるとユ 
タ州に入ります。下っていくとソレトレークの街が近づいてきま 
す。モルモン教徒の街です。それで今年の初めに山の小さな教会で 
エホバの証人の学びをしてくれた牧師のことに話が移りました。

 切っ掛けは、その牧師にも尋ねたのですが、エホバの証人の本当 
の意図が今一度つかめないでいるからです。モルモン教や統一教会 
はそれなりの目指しているものが見えてくるのですが、エホバの証 
人はどうも分かりにくいのです。それはともかく、この牧師は30 
年間エホバの証人に捕らえられていて、そこから解放されて、いま 
私たちの山の教会の牧師になっているのです。学び会の間、その経 
験のゆえに、何が本物なのかということに敏感であると何度か語っ 
ていました。

 実際にその通りで、聖書のポイントを明確に語り、そのために実 
例としてさらに聖書の物語を結びつけてきます。また、教会を自分 
の思いでコントロールすることを注意深く避けています。アフリカ 
系アメリカ人で長髪を束ねています。牧師に就任するプロセスで 
去っていった人たちもいます。その外見にもかかわらず、語る内容 
は真実が込められています。教会に新しい人が加えられてきていま 
す。知らない人たち、そして普通では届かない人たちが礼拝に来て 
います。

 それにもかかわらず、どうして人は変わらないのだろうかという 
疑問を抱いていることを実際にソレトレークの間をドライブしなが 
ら妻と語り合うことになったのです。文字通りに塩の湖の間です。 
その疑問は同時に、人はどうして変わりうるのかということでもあ 
ります。それでも現実には、いわゆる恵まれたメッセージを聞いて 
も、その場限りで、しばらくすると以前の状態に戻ってしまい、変 
化を見ることがありません。

 それは人ごとではないのです。自分を嫌っている人は早く召され 
たらばよいという思いがどこかにあります。嫌なことに直面すると 
何とか避けようする自分がいます。何かに疲れたらばキリストの下 
で休みを求めるより、この世のやり方でリフレッシュを考えてしま 
います。聖書で教えられていることがすーと飛んでしまって、古い 
自分がそのまま生きています。

 今回の日本で、礼拝の奉仕を終わってロビーでひとりの年配のご 
婦人が尋ねてきました。「男性は歳を取っても変わることがあるの 
でしょうか?」ということですが、真剣そのものでした。私の反応 
は「ほとんど無理でしょうね」というものでした。この方の背景を 
後に牧師から伺うことになったのですが、どうにも変わりようがな 
いご主人のことを言われたのです。変わることを期待できても、こ 
ちらからは変えることはできないのです。

 私たちの山の教会でもこの牧師の真実のメッセージもかかわら 
ず、教会の人たちと自分のやり方に合わないということで去って 
いった人もいます。似たようなことが今でも起こっています。どん 
なにすばらしいメッセージを聞いていても、どこかで古い自分を 
しっかりと握りしめているところが私たちにあります。握りしめた 
ままで教会生活を送ることができてしまいます。そのなかでも変え 
られる人はいるのですが、今の一般的な教会の状況は、どこかで牧 
師のエゴや教会員のエゴが見えないかたちで支配しているところが 
あります。牧師に就任するまでは従順でおとなしいふりをしていた 
のですが、徐々に本性が表れてきた話をシカゴでも聞いてきまし 
た。山の教会でもそのようなことを何度も経験してきました。

 人が変えられるのは、恵により、御霊によることでありながら、 
実際にどのように人の心に働き、どのようなメカニズムで影響し、 
実を結んでいくのか、現象的には分かっても、人に説明したり、自 
分で納得したりできるかとなると、結構言葉に詰まってしまいま 
す。また少なくとも自分のなかで変えられていると思う面があって 
も、変えられないでそのままの自分が生きていることも分かっています。

 現在そんな疑問を持って二つの本を読んでいます。一つは日本語 
に訳されているダラス・ウィラードの『心の刷新を求めて』(あめ 
んどう)と、もうひとつはN.T.WrightのAfter You 
Believeです。どちらも信仰の上に私たちの知性、思い、意志、そし 
て心がどのように関わるのかを避けないで取り上げています。ダラ 
ス・ウィラードはこの面で実質的に多くの牧師を助けてきました。N.T. 
ライトが世界的な聖書学者だけでなく、英国国教会のビショップで 
あったことがこの本でよく分かります。

 ユタ州を横切りながら話し合ってきたことを昨日教会の礼拝の行 
き帰りでも続けることになりました。そのなかでそういう面から見 
るとあの村上春樹の小説も人が変わっていくことがテーマになって 
いることを妻に話しました。当然霊的変容というのではないのです 
が、社会や家庭のことに無関心というか距離を置いていた主人公 
が、アタッチメント、責任を持って向かっていくのです。そのまま 
では人は取り返しのできない闇の中に閉じ込められたままなので 
す。このままで良いと思っているわけではないのです。それでいて 
どうしたらよいのか分からないのです。この春に出た新刊書でも取 
り上げられています。また私たちの共著の『聖書と村上春樹と魂の 
世界』の続きにもなりそうです。

 教会の外の人が教会とそのなかの人を見て自分たちとそんなに変 
わらないとい見ていること、またそのように見られていることが現 
状だとすると、それは自分だけでなく、また自分の教会だけでな 
く、どうしてなのかという問いが繰り返し出てきます。どこかに 
つっかかっていて重くのしかかっています。

上沼昌雄記
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「「人はなぜ変わらないのか、あるいは、変わるのか」2013年 7月22日(月)」への3件のフィードバック

  1. 「神の愛」「ありのままで~」耳障りのよい言葉はいくらでも語られる。
    みことばを耳にして イエスキリストのはらわたを感じて 心開かれ 解放される。
    しっかし 神もキリストも見えない存在。
    最後は人と人との関わりじゃないでしょうかねえ。

    愛とは関わることでしたっけ・・。
    キリストに倣うキリスト者に接することにより 人は 解放され 起き上がり 歩み始めることができる。

    言うのは簡単なんですが~。

    1. ウェブ担当の橋本ともうします。上沼先生にはコメントを見るようにお伝えしているのですが、見ていないようですので、直接メールで送っていただけると助かります。お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。

      橋本

      1. ウェブ担当の橋本ともうします。上沼先生にはコメントを見るようにお伝えしているのですが、見ていないようですので、直接メールで送っていただけると助かります。お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。

        橋本

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