「アテネとエルサレム」2013年8月5日(月)

 バビロン捕囚からエルサレムに帰還して神殿を再建し、城壁を修 
復していく過程を、エズラ記とネヘミヤ記を通して妻と読みなが 
ら、良く当時のペルシャの王様がそれを許したものだと関心をする 
というより、何とも不思議な思いにさせられます。バビロン捕囚そ 
のものが、神の民への神のさばきでありながら、そこにまた神の救 
いのみ手が働いているからです。そのしるしのようにバビロン王国 
からペルシャ帝国に時代が移ることで、捕囚の民がエルサレムに 
戻ってくるのです。どこかで神の主導でことが動いているのです。しか 
も 世界の動きの中でことが起こるのです。 神の民だ 
けの動きには留まらないのです。

 エズラによる神殿再建は紀元前516年、ネヘミヤによるエル 
サレムの城壁の修復は紀元前445年頃です。聖書の記述はこの 
あとほとんど沈黙と静寂の世界に入っていきます。エルサレムでそ 
の後神の民がどのような生活をしていたのかも聖書は語ることを避 
けているかのようです。いわゆる聖書の中間時代です。それでも神 
は次の備えをされていたと言えるのかも知れません。その備えとは 
当然、御子の誕生への道です。

 それは、エルサレムもその中に含まれていたローマ帝国におい 
て、まさにその時が満ちて到来するのです。しかしその前にはアレ 
キサンダー大王によるギリシャの支配にエルサレムが置かれます。紀元前 
332年のことです。そのアレキサンダー大王の家庭教師をしたのが紀元前 
384年に生まれた哲学者のアリストテレスです。彼の師であるプラト 
ンが生まれたのは紀元前427年です。さらにその師であるソク 
ラテスが生まれたのは紀元前469年頃です。まさにソクラテス 
がアテネで生まれたのが、エルサレムの神殿再建と城壁の修復の間 
です。すなわち、神の民の捕囚からの帰還にあわせるかのようにア 
テネでギリシャ哲学が開花していくのです。ローマ帝国の文化を支 
えていたのがこのギリシャ哲学です。

 キリスト教の発展のためにギリシャ哲学が備えられていたと取っ 
て良いことなのか、それはキリスト教の逸脱の道に繋がることと 
取ったらよいのか、何とも迷わされるとことです。すでに旧約聖書は70 
人訳聖書としてギリシャ語に訳され、さらに新約聖書自体がギリ 
シャ語で書かれることになるのです。しかも避けることができない 
かのように、あのイエスもパウロもギリシャ人とギリシャ哲学との 
接点を持つのです。ヨハネ福音書でイエスがエルサレムに入場する 
ことが記されています。その折りにそこに「ギリシャ人が幾人かいた」 
(12:20)と記されています。彼らが弟子たちを通し 
てイエスに面会を求めたことで、イエスがあの有名な一粒の麦の話 
をするのです。それはご自分の時の到来を意味していたのです。

 パウロは使徒の働きの17章で、何とそのアテネでイエスの 
復活の宣教をするのです。「エピキュロス派とストア派の哲学者た 
ちも何人かいて、パウロと論じ合っていた」(17: 
18)と記されています。ほとんどの人はパウロの宣教をあざ笑うの 
ですが、何人か信じる人が起きています。次の18章でパウロ 
がアカヤの地方総督ガリオの前に訴えられます。実はこのガリオは 
当時のストア派の哲学者のセネカのお兄さんです。偽書ですが「パ 
ウロとセネカの往復書簡」まで出ています。

 その後の2千年のキリスト教の歩みと言ったらよいのか、西 
洋哲学の歩みと言ったらよいのか、それは何とも密接で複雑な歩み 
をすることになるのです。三位一体論や中世カトリシズムのように 
哲学的な概念と理論で助けられてきたと言ったらよいのか、大村晴 
雄先生がドイツ観念論を「神学の変容物」と言っているように、キ 
リスト教が哲学にのめり込まれてしまっただけだと言ったらよいの 
か、何ともやっかいな様相を呈してきます。そこにはさらに、キリ 
スト教があまりにギリシャ化されたために反ユダヤ主義をうちに含 
むことにもなったのです。

 「信仰のみ」「聖書のみ」を標榜して教会を正したルターの宗教 
改革も、すぐ後にメランヒトンによって中世のスコラ的な様相を持 
つことでプロテスタントの正統主義をかたち造っていきます。聖書 
主義、福音主義は方向としてはその通りなのですが、その立場を擁 
護するために哲学的な要因を取り入れることが、また避けられない 
のです。キリスト教はすでに、何とも面倒な状況に置かれています。

 神の民が捕囚を解かれてエルサレムに帰還して神殿を再建し城壁 
を修復していくときに、アテネでソクラテスが生まれ、プラトン、 
アリストテレスと続いてヘレニズム的な世界観が築かれていきま 
す。神の民のヘブライ的な世界観がそれに飲み込まれたり、そのな 
かで逆に生き延びて方向を定めていったり、相反する世界観が交差 
する中で生きることになります。2千5百年前のアテネ 
とエルサレムがそんな役割というのか、道筋を備えていたかのよう 
です。それはやはり神の導きと言うべきなのでしょうか。

上沼昌雄記
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