「大村先生の心の中」2013年8月20日(火)

 この5月20日に大村晴雄先生を宇都宮の施設にお訪ね 
しました。このところ常連の小泉氏と石神牧師とご一緒させていた 
だきました。石神牧師の司式で聖餐式をもって、それぞれが先生の 
耳元で近状を報告してから、次にどのようなことになるのかと佇ん 
でいました。そうしましたら思いがけず、先生の方から質問が出て 
きました。何と創世記のことに関しての質問でした。正直あっけに 
とられてしまいました。あたかも勉強していて分からないとのでこ 
の際と思って問いかけてきたかのようです。

 創世記の初めの記述において「人」の理解に違いがあるのかとい 
うことと、創世記に「真理」という言葉があるのか、ということの 
ようでした。先生が腹の底から語り出しているような言葉を聞き取 
るのも難しい状態なのですが、そういうことなのかなと、3人 
とも衝撃を受けて、どうしたものかと思っていたのですが、石神牧 
師が宿題として引き受けてくれました。

 この秋にまた大村先生を訪問することで話が出てきたときに、石 
神牧師から宿題を終えたノートがメールで送られてきました。何度 
も書き直して確信はないのですが、こういうことでしょうかと断り 
が付いていましたが、読んでみて、逆に大村先生の質問の意図を了 
解することができました。創世記1章と2章での人に関 
する記述の違いを明確に説明しているものです。また「真理」とい 
うことばが使われている箇所を列記しています。

 しかしなぜ先生はこのような質問をされて来られたのか、知りた 
くもなりました。すでに104歳になられ、目も見えず、片耳が 
かすかに聞こえる状態です。何かを読んで疑問に思われたのか、何 
かを考えている続きでこのような問いに至ったのか、ただ驚かされます。

 石神牧師は宿題のノートを先生のご子息に送って読んでいただく 
手だてを取られました。先生にとってご子息の声が一番聞き慣れて 
いるからです。そしてそのご子息の返事で驚かされました。行く度 
ごとに創世記2章1―17節を読まされるというこ 
とです。その意図はおおよそ想像がついていたが、石神牧師のノー 
トで納得しましたというものです。

 何が大村先生を駆り立てて、創世記の初めの記述にこだわるよう 
にされたのか、先生の心の中を覗いてみたい思いです。1章と 
2章の記述の違いは指摘されて来たことです。それは良いのですが、 
どうして今になって、またどのような関わりでこの問いが出てきた 
のか、何かが刺激になって記憶がよみがえってきてこの問いが再度 
先生にとって課題となったのか、ご自分では聖書を読めないので、 
それで何度もこの箇所をご子息に読んでもらって、私たちに質問し 
てこられたのか、何とも計りがたい思いになります。

 それ以上に単純に、こちらも年を重ねて行ったときに、かつて聖 
書の記述にこだわっていたことがあっても、目も見えなく、耳も聞 
こえなくなるなかで、さらに考え思い巡らしていくようなことがあ 
るのだろうかと自問させられます。若いときに事細かに聖書を調べ 
ていってその奥深さを発見した喜びと情熱はすでに冷めていって、 
感情の流れに動かされて、心が萎えてしまうだけなのだろうかと反 
省させられます。

 そんな心の問いかけがあるのですが、例のアウグスティヌスの 
『告白』に多少納得させられることがあります。というのは、端的 
に「告白」なのですが、その最後でアウグスティヌスが創世記の 
1章に対面していくからです。情念にかられて罪の深みに入ったこ 
と、またマニ教に迷った自分の過去を振り返りながら、心の深くで 
真の神に出会っていくのです。その記述が1巻から9巻 
までで全体の3分の2を占めています。そして10 
巻でその心の奥底にある記憶の不思議さを取り上げたあとに、最後の11 
巻から13巻までで創世記の1章を取り上げていきます。

 このようなアウグスティヌスの、心の内面を見つめ、その奥底に 
入っていくことで、なお心を越えて存在する神と、その神が造られ 
た被造物の心の外の世界に出会っていくプロセスが、何とも今大村 
先生の心の動きにも当てはまるかのようです。アウグスティヌスが 
なぜ『告白』の最後で創世記1章に入っていったのかが、大村 
先生がこの時点で創世記の最初の記述にこだわっておられることと 
結びついてきます。それはまた、あのパウロがローマ書8章で 
御霊に導かれるなかで被造物のことを取り上げていることにも結び 
つきます。

 それゆえに、大村先生にとってたとえ目が見えなくとも、耳が聞 
こえなくとも、ご自分の心に響いてくる神の声に反応して、なお神 
に対して問いが出て来るのだと思います。神の創造の世界に対面す 
ることで出てくる問いです。そして何よりも、そのようなことは自 
分のなかでも起こることなのだろうかと、立ち止まって考えさせら 
れます。同時にそれは何とも願わしい望みでもあります。

上沼昌雄記
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