「プロテスタントの信仰は?」2013年9月2日(月)

 この問いは、プロテスタントの諸派に属している私たちにとって 
はあえて問う必要のないことですが、近世哲学史家である104 
歳の大村晴雄先生と50年近いお交わりをいただいていて、実 
はこの問いをいつも突きつけられてきたように思います。神学校で 
の学びを終えて、組織神学の学びを続ける旨をお伝えしたときに、 
その「組織」とは何?と、何とも静かに尋ねてくださったときのそ 
の場の雰囲気と、その時受けた衝撃を今でも覚えています。その問 
いは組織神学を学び、教え、今に至るまで心に響いています。

 そしてそのような問いを出された大村先生の、特に哲学者として 
の信仰のあり場はどこにあるのだろうかと思わされ、この夏先生の 
著書を振り返ることになりました。同時に何度も先生のお宅をお訪 
ねしてお話しをさせていただいたことを思い出します。ある時には 
私の方からそれでは「スコラ哲学は存在論で、プロテスタントは認 
識論ですか」とお尋ねして、「そうだね」と一言返事をされたのを 
覚えています。しかしまた、プロテスタントで哲学者であることの 
難しさをうれしそうに話しもしてくれました。哲学と信仰という 
テーマで悩んだことはないとお弟子さんたちの前で話されたと、友 
人の小泉氏から伺ったこともあります。

 『近世転換期の思想』に納められている「ルター『ハイデルベル 
グ論題』について」という論文があります。先生が49歳の時 
に東大教養部の「人文科学科紀要」に書かれたものです。ハイデル 
ベルグ論題は、免罪符のことで1517年に「95箇条の提 
題」を出した次の年に、ルターが自分の立場を擁護するために書い 
たものです。「免罪」のことには触れないで、いわゆるスコラ神学 
を「栄光の神学」と呼び、自分の立場を「十字架の神学」と呼ぶこ 
とによって、何をプロテストしているのかを明確にしたものです。 
しかもスコラ神学の代表のトマスを通り越して、その背後のアリス 
トテレス哲学からの分離を語るのです。ルターはアリストテレスの 
『倫理学』をすでにウィッテンベルグ大学で教えていました。その 
アリストテレス哲学からの分離を公にしたのです。まさにプロテス 
トしたのです。

 ルターのこのプロテストを取り扱う大村先生の迫力と息づかいを 
感じます。そのプロテストの難しさと、ルターが栄光の神学と十字 
架の神学として際だたせたその視点の厳しさを、これ以上ないほど 
に明確にする、まさに「近世」の意味を世に問おうとしている近世 
哲学史家の使命を感じます。哲学を「神学の卑」と呼んではばから 
ない中世のスコラ神学との分離を言いだし、聖書から十字架の神学 
を明確にし出しているルターの命がけの闘いを、あたかもご自分の 
使命であるかのように語る大村先生がそこにいます。アリストテレ 
スの哲学を神学と一直線に結びつけたスコラ神学の「総合」を切り 
離して、神学の独立を訴えだした近世の叫びを大村先生はルターに 
聞いています。

 十字架の神学とは、「十字架につけられたキリストのうちに、真 
の神学と神の認識とがある」ことだとルターは言います。しかしそ 
れは神の「人生と弱さと愚かさとであった」のです。ですから理性 
では到底到達し得ないものです。その理性で神に到達できるとした 
のが栄光の神学です。しかし実際には神を神としてあがめていない 
のです。ルターは、それはアウグスティヌスもパウロも指摘してい 
るところだとはばかることなく言います。そのように言い放つこと 
で、ルターは後に戻れない近世の旅を始めたのです。アリストテレ 
スに決別して、知恵と知識の宝であるキリストに視点を置いたので 
す。生まれたままの自然の理性では到達し得ないただ神の恩寵に視 
座を転回したのです。

 それは際だった信仰だけの世界です。意志だけが問題であって理 
性の入る余地のない世界です。それでも十字架の神学は「神学」で 
す。ルターは「神学的パラドックス」と言います。神は自分を「隠 
す神」であります。十字架のキリストでご自分を現された神であり 
ます。それは当然自然的理性では到達できない神です。それができ 
るかのように装ったのがスコラ神学です。ローマ書1章で言わ 
れているように偽りのむなしい信仰なのです。十字架の神学は愚か 
さを語る神学です。それを誇りとする神学です。

 大村先生の「ルター『ハイデルベルグ論題について』について」 
を読みながら、それは先生ご自身がご自分の信仰の拠り所としてい 
ることなのだろうと思わされます。同時に大村先生の嘆きも聞こえ 
てきます。それほどまでに明確に切り離されたプロテスタントが、 
プロテストしたその相手にあっという間に飲み込まれてしまうから 
です。ルターとほとんど同時代のメランヒトンによってルターの教 
えがスコラ化され体系化されていくのです。すなわちプロテスタン 
ト・スコラ主義です。それによって、プロテスタントで組織神学が 
可能になったのです。

 ルターに沿って言うことができるとすると、プロテスタントの信 
仰は何かとあえて問う必要のないことです。しかし、それほどに明 
確にされた信仰が、瞬く間に理性で説明し直され、組織化されるス 
コラ化を身に着けてきたことを思うと、もう一度というか、いつで 
も問い直す必要があります。その問いを、大村先生を通してルター 
から突きつけられているようです。

上沼昌雄記
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