「山の教会は今」2013年11月18日(月)

 昨日、山の教会の礼拝に2ヶ月ぶりで出席いたしました。私 
たちが出たり入ったりしているのには教会の人は慣れているので、 
日本はどうでしたかとか、両親は如何ですかということで、挨拶が 
終わってしまえばいつもの慣れ親しんだ教会になります。その辺の 
感じは変わらないのですが、昨日は2ヶ月の間に知らない人が 
さらに20名ほど礼拝に出席されていて、こちらの方が驚かさ 
れました。すでに教会に親しんでいるようで、私たちのことも初め 
ての人として受け入れてくれていたようです。

 カリフォルニアに移り住んでからすでに24年になります 
が、ずっとこの教会に集っています。川を越えたこちら側に家を建 
てて移り住んでも、40分ほどドライブをして通い続けていま 
す。ある時期、結構長い間でしたが、何度も牧師が来て去っていく 
ことが続きました。その都度、教会が、信徒が悪いという言い訳を 
して去っていきました。フォレストヒルという小さな街では評判の 
悪い教会になっていました。

 今の牧師は教会の97歳の黒人のお婆さんの孫にあたる方で 
す。サンフランシスコ近くから毎週通ってきて2年、そして今 
年の初めにフォレストヒルに移り住んできました。メッセージは一 
週間まるまるかけて祈り準備していることが分かります。旧約聖書 
からの引用も必ずあります。長髪を何本にも編んで後ろに束ねてい 
るのですが、説教に熱が入ってくるとその長髪が前に飛び出てくる 
のでその度に後ろに押し返さなければなりません。ネクタイ無し 
で、長袖のポロシャツですが、神と聖書に対する敬虔な思いを損な 
うことはありません。むしろ好感を持たれてきています。

 この3年の間に、普通では届かない人たちが教会に集うよう 
になりました。社会でも置き忘れたというか、ついて行けないで、 
裏側でじっと生活をしているような人たちが少しずつ来るようにな 
りました。機能不全の家族、ホームレス、薬物使用者、失業者と、 
どちらかというとそれなりに安定した生活をしている人たちが今ま 
で教会の中心になっていて、その外側で教会からも忘れられてし 
まっている人たちです。教会のひとりの姉妹がボランティアで教会 
の一室を古物の衣料を提供する活動も始めています。フォレストヒ 
ルの街での支援活動にも、缶詰や生活必需品を毎月集めて、教会全 
体としても活発に関わっています。フォレストヒルの人たちも注目 
するようになりました。

 昨日は感謝祭の持ち寄りの食事会でした。階下いっぱいに用意し 
たテーブルも足りないほどでした。食べ物は充分にありました。何 
人かホームレスの人がいると言うことです。どのような人がいても 
違和感のない、それが主の食卓であるかのような雰囲気です。牧師 
は全身全力で説教をしているので、礼拝の後の食事はいっさい手を 
出さないで体調を管理しています。その代わりに新しい来会者と会 
話の時を持っています。

 教会のボランティア活動を聞きつけて、昨日はサクラメントから 
トラックいっぱいに食料と衣類を持ってきてくれた方がいます。食 
事の後にそれらを一室に移す作業を皆が当然のようにしていまし 
た。礼拝前まで駐車所で煙を吸っていた人も、礼拝では静かに耳を 
傾けています。何かが始まればうれしそうに活動を始めます。義樹 
の中学の同窓生も今失業者として加わっています。ルイーズがその 
ような人たちをみて、2ヶ月前よりみな健康そうになっている 
というコメントをして、言われてみたら皆明るくなっています。

 みなしご、やもめ、在留異国人が困ることがないようにという、 
モーセを通しての神の律法の要求がキリストの愛のゆえに少しでも 
教会で満たされてきているようです。それなりに生活ができている 
人たち、あるいはもう少しその上の人たちで、多くの場合教会が動 
いているのが現実です。そのようなところではまたそれぞれのエゴ 
が出てきて、分裂騒ぎまで起こします。そんなエゴを打ち砕かれた 
人たちが教会に集うようになって、不思議に教会の本来あるべきと 
ころに戻っているのかも知れません。

 しかし、そのために教会があるわけでもありません。牧師が神と 
聖書に忠実に敬虔に従い、その思い巡らしの中から語るメッセージ 
が徐々に私たちの自己中心を打ち砕いて、他者への思いを増し加え 
てくれています。礼拝は心が気持ちよくなるためではないのです。 
キリストが自らを捨てて父なる神のみこころに従われたように、私 
たちも自分を捨ててキリストに従うことを確認して実行するところ 
です。社会・福祉活動はその延長で出てきているのです。それが目 
的ではないのです。それゆえに、その活動にも自由があります。御 
霊にある自由です。

 今週末はまた両親のことと、来週の感謝祭のことがあってまた出 
かけます。山の教会には出たり入ったりが続きます。帰ってくる度 
に、丸一週間準備をして全身全霊を込めて語る牧師の説教とそれが 
静かに浸透していく様子をうかがうことができます。

上沼昌雄記

「水晶の夜」2013年11月11日(月)

 昨晩10時のテレビニュースを観ていたときに、75年前の 
1938年11月9日の夜から10日にかけてのドイツで 
のユダヤ人に対する暴動からアメリカに逃れた人のことが取り上げ 
られていました。「水晶の夜事件」と呼ばれるもので、破壊された 
ショウウインドーやシナゴーグのガラスの山が水晶のように輝いて 
いたという、とんでもない侮辱を込めて言われたことです。実際に 
はナチの官憲による事件で、それを契機にドイツはホロコストに突 
き進んでいったのです。

 75年前のこの事件がアメリカで取り上げられて、日曜の夜 
のテレビに出てきたことに、良くもしっかりと取り上げたものだと 
驚きました。日本のメディアで取り上げられているのか興味があっ 
てネットで調べてみたら、時事通信が取り上げているようです。ド 
イツではその記念館に大統領が記帳に訪ねていると言うことで 
す。75年前ですので、第二次世界大戦の前に起こったことです。

 この「水晶の夜・クリスタルナハト」という言葉を、10月 
の半ばに、札幌郊外の江別市に退いているマラーノ研究家の小岸昭 
氏を訪ねたときにも聞いたことを思い出します。1492年にス 
ペインとポルトガルからカトリックによって追放されることになっ 
たユダヤ人で、表面上カトリックに改宗した人をマラーノ・豚と呼 
んだのです。そのマラーノたちの行く末を追跡しながら訪ねた研究 
書を通して小岸氏の業績を知ることになり、機会をいただいてお話 
を聞くことができました。

 マラーノたちの行く末とは、追放されて離散して、地理的に広範 
囲に広がっているだけではなく、時間的にも数百年という単位で 
後々に影響している痕跡です。それは隠れた歴史の爪痕のようなも 
ので、表面には出て来ないことです。それを根気よく訪ねていく小 
岸氏の研究書は、歴史の裏側に引き込まれるものです。そんな苦労 
話を伺っているときに「水晶の夜」のことが出てきました。それが 
耳に残っていたのですが、公には聞くこともないのだろうと思って 
いたので、昨晩のニュースには驚かされました。

 キリスト教の正統派という中にいても、というのが正確なのか、 
逆にそれゆえに、というのが適切なのか、マラーのことを聞いたこ 
ともなく、ましてはキリスト教が抱えている反ユダヤ主義について 
も聞くこともありませんでした。それは隠され、隠れているので 
す。それがユダヤ人哲学者であるレヴィナスの著作を読み、マラー 
ノの現実を知ることになって、2千年の西洋のキリスト教が初 
めから抱えていることであり、ホロコストとして西洋のキリスト教 
世界で起こったことを知ることになったのです。「水晶の夜事件」 
はその流れの中で起こったことです。すなわち、西洋の伝統的な聖 
書理解に支えられた文明の中で起こったことです。

 このことを真剣に取り上げて、西洋の土壌で聖書を捉え直してい 
るイギリスの聖書学者がいます。今回の日本でもその研究会として 
2回目のN.T.ライトセミナーを持ちました。N.T.ライト 
を真剣に取り上げている人が日本でも増えています。折しも新しい 
学術書が11月の始めに発刊されました。Paul and the 
Faithfulness of Godというタイトルで、1660頁にわたる大著 
です。N.T.ライトのパウロ研究の集大成のようです。

 この大著をどのように読んだらよいのか悩むのですが、幸いにそ 
の序論で全体の流れを説明してくれて、最初の章と最後の章が対応 
していることが分かり、多少ずるいやり方なのですが、1章を 
読み終えて、最後の16章を読んでいます。結論に当たるこの 
最後の章の初めに、2千年にわたるキリスト教の反ユダヤ主義 
の起源と、それに基づいた西洋の伝統的な聖書理解に言及していま 
す。このことはここで初めて取り上げられているのではなく、多く 
の著書で繰り返し取り上げられています。西洋の正統的な伝統的な 
聖書理解に潜んでいる反ユダヤ主義です。

 N.T.ライトがこのことに結構神経を使っていることが分か 
ります。むしろ死活問題として取り上げているのかも知れません。 
そしてそれゆえに、パウロ神学のためにこれほどまでに厳密で誠実 
な聖書解釈を試みていると言えます。その意味では、N.T.ラ 
イトは聖書学者であり、同時に歴史学者でもあります。初代教会か 
ら始まる聖書理解が歴史に及ぼした痕跡をしっかりと見定めていま 
す。それゆえに、歴史から浮き上がった聖書理解ではなく、歴史に 
方向を定めていく聖書理解を見据え、全力を注いでいます。なすべ 
き責任がまだあることを教えてくれます。

上沼昌雄記

「アウグスティヌスの誘惑」2013年11月6日(水)

 今回の日本の奉仕で不思議な導きをいただいて、札幌の一つの聖 
書学院で「聖書と哲学」と言うことで2日にわたって4 
時間の授業を持つことができました。このテーマは、全く個人的な 
興味というか課題として長年取りかかってきたことです。それをま 
とめて話す機会をいただいたのは、不思議な導きであり、さらに不 
思議な体験となりました。というのは、長年取りかかってきたので 
すが、同時に避けていたからです。それが、避けることのできない 
テーマとして降りかかってきたのです。

 一つの想定というか、仮説として、聖書と哲学の方向性というか 
志向性のようなものを考えてみました。というのは、聖書では信じ 
るというのは自分を捨ててキリストに従うこと、それはまた一粒の 
麦として地に落ちたキリストの生き方にならうことのように思うの 
ですが、哲学はその逆で、自分の世界というか、観て観察している 
自分を中心に世界のあり方を極めていくことで、それが理性であ 
り、意志であれ、感情であれ、結局は自己中心の世界を確立するこ 
とにあるからです。聖書では自分から出ていくことが説かれている 
のですが、哲学では自分を堅く固持して、世界を自分のうちに取り 
込んで、自分の世界を確立することに視点が置かれています。

 この仮説に立って考えてみると、現状のキリスト教が思いの外と 
いうか、もっともと言えるのか、かなり自己中心的な信仰形態に 
なっていると言えます。信じたらすべてがうまく行くという信仰、 
自分の平安のために聖書も神も使ってしまうような信仰、どうした 
ら幸せなクリスチャン生活が送れるのかという信仰、幸せな結婚、 
幸せなクリスチャンホームの形成という信仰、それらは、結局はど 
こかで自分中心の信仰理解と聖書理解に陥っています。その源が、 
キリスト教がギリシャ哲学と融合する中で自然にというか、当然の 
ように身に着けてきたことにあると言えます。

 このことで意外に、あのアウグスティヌスが決定的な方向を示し 
てきたとことがあります。アウグスティヌスといえば、西洋キリス 
ト教の父と言われ、私たちも彼の『告白』や『三位一体論』や『神 
の国』を自分たちの信仰理解と同じように受け止めています。札幌 
の講義でも話したのですが、アウグスティヌスの凄さは、信仰の世 
界を語っていながら、哲学の歴史では避けることができないほど重 
要な役割をしていて、必ず西洋哲学史で登場していることです。た 
とえばルターは教会史では重要ですが、西洋哲学史ではアウグス 
ティヌスのようには取り上げられません。

 何がそれほどまでにアウグスティヌスをして、哲学の世界にまで 
影響しているだけでなく、哲学との関わりがキリスト教そのものに 
まで深く関わってくるのでしょうか。それはあの『告白』の冒頭の 
言葉に見いだされます。「あなたは私たちをご自身にむけておつく 
りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うま 
で、安らぎを得ることができないのです。」すなわち、神に向かっ 
ていながら、その神を自分の心のうちに探求していく姿勢です。自 
分の心の安らぎが神探求の中心に置かれていることです。自分の心 
を見つめることが信仰の方向となっているのです。神第一のようで 
ありながら、結局は自分第一なのです。自分の心がどうであれ、と 
はならないのです。

 アウグスティヌスが『真の宗教』で言っていることで、その方向 
性がより明確になっています。「外に出てゆかず、きみ自身のうち 
に帰れ。真理は人間の内部に宿っている。」自分の内面で神を見い 
だすのだというのです。その神は当然外にいるのですが、それは自 
分の内面を通過した向こうに見いだされるのです。その意味では自 
分の内面の反映とも言えます。このことはアウグスティヌスの時間 
の理解にも、三位一体の理解にも当てはまります。過去も未来も現 
在の心の記憶であり、期待です。また精神の三一性、すなわち、記 
憶と知解と意志の三一性の類似の上に神の三一性を捉えています。 
神から私たちではなく、私たちから神なのです。

 確かに邦訳で500頁近い『三位一体論』で西洋での三位一体 
の理解は確立されたところがあります。その功績は多大です。また 
そのように捉えていく誘惑も大です。ただ同時に、心の内面を見つ 
めることで精神のあり方の類似性から引き出していったことで、聖 
書の神は哲学者の神にもなったのです。それを肯定的に捉えるの 
か、否定的に捉えるのか、 もしキリスト教があまりにも自己 
実現ためのものに成り下がっているとしたら、考え直していかなけ 
ればならないところです。

 心が満たされる、心に安らぎを得る、そのために心を見つめる、 
ということがキリスト信仰の目標になっています。それはまさに聖 
書からではなくて、ギリシャ哲学の影響によると言えます。その方 
向を決定づけたのがアウグスティヌスと観るのは言い過ぎではない 
のでしょう。アウグスティヌスの誘惑は、あたかも「賢くする」と 
思われたあの木の実のようなのかも知れません。

上沼昌雄記