「アウグスティヌスの誘惑」2013年11月6日(水)

 今回の日本の奉仕で不思議な導きをいただいて、札幌の一つの聖 
書学院で「聖書と哲学」と言うことで2日にわたって4 
時間の授業を持つことができました。このテーマは、全く個人的な 
興味というか課題として長年取りかかってきたことです。それをま 
とめて話す機会をいただいたのは、不思議な導きであり、さらに不 
思議な体験となりました。というのは、長年取りかかってきたので 
すが、同時に避けていたからです。それが、避けることのできない 
テーマとして降りかかってきたのです。

 一つの想定というか、仮説として、聖書と哲学の方向性というか 
志向性のようなものを考えてみました。というのは、聖書では信じ 
るというのは自分を捨ててキリストに従うこと、それはまた一粒の 
麦として地に落ちたキリストの生き方にならうことのように思うの 
ですが、哲学はその逆で、自分の世界というか、観て観察している 
自分を中心に世界のあり方を極めていくことで、それが理性であ 
り、意志であれ、感情であれ、結局は自己中心の世界を確立するこ 
とにあるからです。聖書では自分から出ていくことが説かれている 
のですが、哲学では自分を堅く固持して、世界を自分のうちに取り 
込んで、自分の世界を確立することに視点が置かれています。

 この仮説に立って考えてみると、現状のキリスト教が思いの外と 
いうか、もっともと言えるのか、かなり自己中心的な信仰形態に 
なっていると言えます。信じたらすべてがうまく行くという信仰、 
自分の平安のために聖書も神も使ってしまうような信仰、どうした 
ら幸せなクリスチャン生活が送れるのかという信仰、幸せな結婚、 
幸せなクリスチャンホームの形成という信仰、それらは、結局はど 
こかで自分中心の信仰理解と聖書理解に陥っています。その源が、 
キリスト教がギリシャ哲学と融合する中で自然にというか、当然の 
ように身に着けてきたことにあると言えます。

 このことで意外に、あのアウグスティヌスが決定的な方向を示し 
てきたとことがあります。アウグスティヌスといえば、西洋キリス 
ト教の父と言われ、私たちも彼の『告白』や『三位一体論』や『神 
の国』を自分たちの信仰理解と同じように受け止めています。札幌 
の講義でも話したのですが、アウグスティヌスの凄さは、信仰の世 
界を語っていながら、哲学の歴史では避けることができないほど重 
要な役割をしていて、必ず西洋哲学史で登場していることです。た 
とえばルターは教会史では重要ですが、西洋哲学史ではアウグス 
ティヌスのようには取り上げられません。

 何がそれほどまでにアウグスティヌスをして、哲学の世界にまで 
影響しているだけでなく、哲学との関わりがキリスト教そのものに 
まで深く関わってくるのでしょうか。それはあの『告白』の冒頭の 
言葉に見いだされます。「あなたは私たちをご自身にむけておつく 
りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うま 
で、安らぎを得ることができないのです。」すなわち、神に向かっ 
ていながら、その神を自分の心のうちに探求していく姿勢です。自 
分の心の安らぎが神探求の中心に置かれていることです。自分の心 
を見つめることが信仰の方向となっているのです。神第一のようで 
ありながら、結局は自分第一なのです。自分の心がどうであれ、と 
はならないのです。

 アウグスティヌスが『真の宗教』で言っていることで、その方向 
性がより明確になっています。「外に出てゆかず、きみ自身のうち 
に帰れ。真理は人間の内部に宿っている。」自分の内面で神を見い 
だすのだというのです。その神は当然外にいるのですが、それは自 
分の内面を通過した向こうに見いだされるのです。その意味では自 
分の内面の反映とも言えます。このことはアウグスティヌスの時間 
の理解にも、三位一体の理解にも当てはまります。過去も未来も現 
在の心の記憶であり、期待です。また精神の三一性、すなわち、記 
憶と知解と意志の三一性の類似の上に神の三一性を捉えています。 
神から私たちではなく、私たちから神なのです。

 確かに邦訳で500頁近い『三位一体論』で西洋での三位一体 
の理解は確立されたところがあります。その功績は多大です。また 
そのように捉えていく誘惑も大です。ただ同時に、心の内面を見つ 
めることで精神のあり方の類似性から引き出していったことで、聖 
書の神は哲学者の神にもなったのです。それを肯定的に捉えるの 
か、否定的に捉えるのか、 もしキリスト教があまりにも自己 
実現ためのものに成り下がっているとしたら、考え直していかなけ 
ればならないところです。

 心が満たされる、心に安らぎを得る、そのために心を見つめる、 
ということがキリスト信仰の目標になっています。それはまさに聖 
書からではなくて、ギリシャ哲学の影響によると言えます。その方 
向を決定づけたのがアウグスティヌスと観るのは言い過ぎではない 
のでしょう。アウグスティヌスの誘惑は、あたかも「賢くする」と 
思われたあの木の実のようなのかも知れません。

上沼昌雄記
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“「アウグスティヌスの誘惑」2013年11月6日(水)” への 1 件のフィードバック

  1. 祈祷会の帰り途、「哲学」ということばが脳裡に出てきて、哲学の目的について考えていました。ホームページを開いて読みました。ありがとうございました。

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