「受肉:この時空間での神の一大パノラマ」2013年12月16 日(月)

 御子の誕生、すなわち、キリストの受肉によって新約聖書が始 
まっています。エズラ・ネヘミヤ記で旧約聖書が終わっています。 
その間の約400年の中間時代があります。この中間時代にあま 
り注意を払ってきませんでした。この秋に札幌郊外の聖書学院で 
「聖書と哲学」というテーマで教える機会があって、気づいたこと 
があります。それはこの中間時代が、まさにあのギリシャ哲学の興 
隆の時期に重なっていることです。

 エズラによってエルサレムの神殿再建がなり、ネヘミヤによって 
城壁が修復されるのです。それでもって旧約聖書は終わって、そして約 
400年の沈黙というか、空白があって、御子の誕生で預言が成就した 
と捉えられています。その通りなのですが、その預言が成就される 
背後にギリシャ哲学がどのように意味をもってくるのか、どうでも 
いいのですが、それだけまたより興味をそそられます。

 ギリシャ哲学の祖と言われるソクラテスが、実は、エズラとネヘ 
ミヤの間にアテネで生まれています。そのあとプラトン、アリスト 
テレスと続いていきます。ギリシャ哲学というか、哲学そのものの 
基本的な問題と方向はこの3人の哲学者によって確立されまし 
た。ニーチェにしても、ハイデガーにしても、ギリシャ哲学が抱え 
ている問題点を指摘して、何とかソクラテス以前に戻ろうとしてい 
るのです。

 この中間時代に、ギリシャのアレキサンダー大王によってギリ 
シャ文化の影響がエルサレムにまで及びます。新約の時代はローマ 
帝国ですが、文化はギリシャ文化です。パウロのローマ書では、 
ローマ人ではなく、ギリシャ人が問題にされます。エルサレム、そ 
の上に小アジア、下にエジプト、その向こうにアテネ、さらにその 
向こうにローマと、地中海を中心に想像以上の文化と宗教の交流が 
なされています。エジプトのアレキサンドリアでは、ヘブル語聖書 
が、ギリシャ語に70人訳として紀元前2世紀に訳されて 
います。

 そしてそこに、ギリシャ哲学とユダヤ教の交流が深くなされてい 
ます。プラトンにイデアという、現象界を越えた一つの理念の世界 
を想定する考えがあります。それまでの自然界だけを見ていたソク 
ラテス以前の哲学に新しい方向を示します。しかし、その自然界を 
越えたイデアは、プラトンがユダヤ教の唯一神・創造神を知ること 
になって影響を受けたと言われています。アウグスティヌスも指摘 
していることです。

 しかしこのことで、ギリシャ哲学のふたつの世界観が明確になっ 
てきます。一つは、ソクラテス以前からあった、太陽や海を神とし 
て崇めていく汎神論です。もうひとつは、プラトンのイデアによっ 
て物質界を超えた世界を真実として、いわゆる、天と地、精神と物 
質、善と悪とを切り離していく二元論です。汎神論では、自然も物 
質も神の居場所で、悪の存在場所はありません。二元論では、非物 
質界、精神の世界だけが現実で、目に見える世界は悪になります。 
精神の世界に上昇するか、逃げることが哲学の修練になります。哲 
学は死の修練とも言われます。

 このようなふたつの世界観が支配的な地中海の右端のエルサレム 
の郊外のベツレヘムで、神の御子の誕生がなされたのです。約 
400年の中間時代は、そのような世界観が明確になることを待ってい 
たときとも言えます。人間が創造主なる神を知らないで、自然と自 
分の心を見つめていったときに考えつく世界観がこの世に明確にさ 
れるのを持って、神はキリストの受肉をなされたと言えそうです。 
キリストの受肉によって、汎神論でも二元論でもない、この時空に 
おける神の一大パノラマを、神が展開したのです。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ 
1:14)初めからあり、神とともにあり、神であることばが、 
「肉となった」のです。神は神ですが、ただ天空彼方に存在してい 
るのでも、また逆に肉の中に存在しているのでもないのです。そこ 
には確かに区別があります。しかし、その区別も神のものではない 
かのように肉となることができるのです。ことばは肉の世界でない 
のですが、肉となることができたのです。この肉の世界も悪の世界 
ではなく、創造の作品です。だからといって目に見える世界に閉じ 
込められているのでもありません。

 神にとって、天と地は、二元論のように完全に区別されて全く交 
流のないものでも、汎神論のように全く同一視されてしまうもので 
もありません。明確な区別がありながら、天と地は重なり合い、交 
わるのです。神にとっては全く問題のないことです。受肉はそのし 
るしであり、しかもその頂点とも言えます。すなわち、汎神論と二 
元論が支配的な当時の世界に、神が示した新しい世界観なのです。 
あたかもギリシャ的な世界観と、聖書の世界観の違いが明確にされ 
るのを、神自身が定めていたかのようです。

 当然そこに衝突と闘いがあります。パウロから始まって、初代教 
会が直面することです。そして、その後の教会の歩みとなります。 
その歩みの中で、ギリシャ哲学が取り入れられていく面がありま 
す。しかし、キリストの受肉に関する限り、ギリシャ哲学が入る余 
地のないのです。むしろ、その違いが明確にされたのです。キリス 
トの受肉は、まさにエッポク・メイキングな出来事だったのです。

 「私たちの間に住まわれた。」それは、私たちの間に天幕を張る 
と言うことです。そうすると、そこにはギリシャ的な空間のことだ 
けでなく、ユダヤ的な時間の関わりもみることになります。出エジ 
プトの後に荒野で神とイスラエルの民が出会う場として天幕が、キ 
リストの受肉で再度実現したことになります。天と地の縦糸と、幕 
屋から続いている横糸がキリストの受肉で間違うことなく交差して 
います。そんなことがベツレヘムで起こったのです。

 そうだとすると、神はいつでもどこでも、この時空間に介入して 
くることができることになります。それを保証するものとして聖霊 
が働いています。そして、聖霊によって私たちも神のわざに組み込 
まれていることを知るのです。そうすると、キリストの受肉は、こ 
の時空間の神の一大パノラマだけでなく、私たちも紛れもなく、そ 
のなかに組み込まれているしるしになります。キリストの受肉のゆ 
えに、この時空間の神の一大パノラマに、この時、この場で、組み 
込まれています。とんでもない世界に生きているのです。

上沼昌雄記
広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中