「ある礼拝後の会話」2014年2月13日(木)

 ニーチェという過激な思想家を取り上げているのですが、その視点がギリシャ哲学と融合したキリスト教に対する批判であると分かると、逆にどのような意味合いで批判しているのか、知りたくなります。同時にそのようなギリシャ的な影響を取り去っても、また、取り去ることで見えてくる聖書の世界を、N.T.ライトが提示しているように思います。そんなことをウイークリー瞑想に書いているのですが、同じように哲学をかじってきた友人の坂本献一牧師とニーチェについてやり取りをしている中で、今週以下のような記事を送ってくれました。ニーチェが指摘し、ライトが取り上げようとしていることが、教会員との会話の中で出てきます。坂本牧師の独特な文章もあって、許可をいただいて全文を掲載いたします。上沼昌雄 

「現世と来世」

今週の日曜の午後、教会員たちとお茶を飲んでいると、こんな話しが出ました。「最近、本屋に行くとお寺のお坊さんが書いた本が沢山並んでいるのに、牧師が書いた本は全く見当たらない」。確かに、私も同じように感じていました。仏教書というのではなく、一般向けの人生論、生き方の秘訣といった類の書物をお坊さんたちが書いているのが、ずいぶんと目に留まるようになったのです。

「中味はそれほどたいしたことは言っていない。ごく当たり前のことばかり。でも、現実生活に即した話しで、よくわかるんだよね」。その人は附け加えました。

私の理解では、本来の仏教は今あるこの世、現世を如何に生きるかを追求した宗教だと思います。来世については何も語ろうとはしなかった。浄土信仰、阿弥陀仏如来などが登場するのは、時代が下ってからのことです。ですから、来世について語るよりも、現世について、今の生活をどうするかを語るほうが得意というか、本来的であるとも言えましょう。

それに対してキリスト教は来世を語る宗教と位置づけられてきました。十字架のイエス・キリストを救い主として信じ受け入れるならば、永遠のいのちを与えられ天の御国に入ることができる。この地上でどのような困難に出会ったとしても、天の御国において悲しみは癒され労苦は報われる。それが「福音」と理解されてきたように思います。それがキリスト教のすぐれている点。死を越えた希望を語ることができる宗教。そのように教えられて来たのではないでしょうか。

しかし果たして、それが聖書本来のメッセージだと言い切ることができるのでしょうか。旧約聖書、特に知恵文学などを読んでいくと、違った世界観があるように思います(ヨブ記14:7~12、伝道3:16~22)。「地上での生活は一時的、仮の世であり、天国での祝福こそが大切。」という考えは、再検討すべきではないかと思えるのです。

それに関し私は、「現世ではなく来世。」という考えが、聖書本来のメッセージとは言えないような気がします。それは聖書本来の考えというより、ギリシア哲学の影響を受けて歪められていったキリスト教思想ではないでしょうか。つまり、プラトンはイデア論を唱え、現実の世界はイデア界の写しに過ぎないとしました。そして本来的イデア界に到達することが人間の理想であり哲学の目標であると考えました。この現実界とイデア界の二元論をキリスト教がそのまま引き継ぐことになったのです。

教会員とのお茶飲み話では、こんな話題も出ました。「主イエスは、自分の宝は地上にではなく虫もさびもつかない天にたくわえなさい、と教えられたよね(マタイ6:19~21)。言い換えれば、地上の銀行にではなく天国銀行に貯金しなさい、ってことだ。じゃあ、その貯金はいつ引き出すことができるんだろう」。そばにいた人が即座に応じました。「それは天国に行った時だろう。この地上で神に喜ばれる歩みをし、神の栄光のために持てるものを用いるなら、天国に行った時にいっぱい利息がついて、豊かな報いをいただくことができるってことでしょう」。すると、最初に話しを出した人が言いました。「この頃、それって違うんじゃないかって思うようになったんだ」。

彼は続けました。「天国に行ったらすべてが満たされているはずだから、貯金をおろす必要なんかない。むしろ、天国銀行の貯金は『彼の世』ではなく『この世』でこそ必要なんじゃないかな。この世で生きていく中で行き詰ってしまうというか、この世の知恵や宝ではどうすることもできない現実にぶつかる。そんな時に、『ああ、天国銀行に貯金をしてたんだ。あの貯金を使えばいいんだ』と思い出し、『神さま、貯金をおろします!よろしく。』って叫ぶ。そのために貯金するんだよ」。

なるほど、と思いました。天国銀行の貯金は天国で使うためのものではない。この世で生きていくためのもの。それなのに、教会では「地上ではこの貯金をおろすことはできません。」と教えられる。そして、多くのキリスト者が「地上では苦しくて当然。ひたすら我慢。」という道徳にしばられ、無理の多い、律法主義的生活を強いられてしまう。これはたいへんなことだと感じるのです。

この「地上でどんなに苦しんでも、天において報いがある。」という考え方の背後に、「現世と来世」、「現実界とイデア界」というギリシア哲学的二元論が存在しているのではないでしょうか。

キリスト教思想がギリシア哲学の影響によって歪められていることを見抜いたのは、哲学者ニーチェでした。ギリシア古典文学の研究から出発した彼は、その影響がいかに深刻であるかに気づいたはずです。「キリスト教は民衆のためのプラトニズムである。」(『善悪の彼岸』)という一言がそれを明確に示しています。そして、それは単に神学上の議論ではなくヨーロッパの人々の生活・道徳を支配しています。その発言の過激さのゆえに、教会からは「敵」としてしか捉えられなかったニーチェです。しかし、彼が否定しようとしたのは聖書ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神でもなく、ただ、ギリシア化されたヨーロッパのキリスト教とキリスト教道徳だったのかもしれません。そして、現代の教会のありさまを思う時に、彼の戦いが他人事とは思えなくなってしまうのです。

坂 本 献 一  (2014.2.13)

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「「ある礼拝後の会話」2014年2月13日(木)」への1件のフィードバック

  1. 大分前に「アテネ捕囚?」へコメントしたのですが、一向に承認されず掲載できないので、こちらに投稿します。システムの問題なのか、管理者の見落としなのかは知りませんが、リクエストを受けたので書きました。

    「私はインチキな奇形児としてニーチェを読むの巻き」

    ゲリラはテロリズムではない。
    テロとゲリラを混同するのは政府か原理主義者、保守派もしくは反ユダヤ主義な連中だと反体制な私はしている。
    エルネスト・ラファエル・チェ・ゲバラが行なった武力闘争はのちの運動家達の手本になった。米国で起こった学生運動の闘士達のほとんどはチェ・ゲバラに由来して行動を起こして来た。
    それと同じで、ニーチェ以降の哲学者及び哲学を学ぶ者はニーチェを無視できない影響下にいる。
    要するにニーチェはゲリラなのである。
    哲学を勉強していると、どこからともなくニーチェは現れる。それも神出鬼没でニーチェと遠くに離れていても至近距離に彼は寄って来る。フランス思想、哲学専門の僕が図書館で真剣にフーコーやサルトルとの対話をしていると、僕の肩を叩く人がいる。それがニーチェである。
    ニーチェとは?どの時代、何処から読んでも、しごく簡単に入れる哲学書である。
    そしてニーチェを味方につけると発想の転換なるものは、いとも簡単に出来る。
    しかし、まったく厄介であり面倒な学者なのだ!
    三島由紀夫は当時の文芸誌に「ニーチェは卒業した。」と書いたが、どこからともなくしつこく現れるニーチェに対し「卒業」という言葉で締めくくったのだろう。当時の寄稿文を読むとニーチェを彼なりに総括して距離を置きたがっているのが理解できる。しかしそう簡単に総括などできないのである。
    哲学者としても分類の難しい人で、その破壊力からして影響力は絶大で勝手に人の頭に忍び込んで概念を破壊しちゃうからややっこしい。なのでオーファンベック言う処のニーチェの狂気の半分は偽装ということからして、影響から抜け出せなくなった三島由紀夫の狂気も半分は偽装だったのだ!
    そうしたことからニーチェの読み間違いは良く起こるので要注意は必要だ!

    そもそもニーチェの神の死の神学については、ニーチェは神の死に興味を示したのではなく人間の死に興味を示したのであって、そこを勘違いするとおかしなことになる。人はニーチェを神の死についての思想家に仕立てて歪曲してしまうのだが、神の死についての最後の思想家はフォイエルンバッハであって、ニーチェの興味は神ではなく常に人間に向けられていた。
    なのでニーチェの神の死の神学はホロコーストの生き残りの犠牲者に多大な影響を与えた。
    フランソワー・モーリヤックがエリ・ヴィゼールの「夜」にあてた序文で書いたことは人間としての彼の率直な現実なのであろう。
    「神は死んだというニーチェの叫び声は、ほとんど身体に直に応えるひとつの現実の表現であった。」

    ニーチェを理解するにあたりモーリヤック的な身体の痛みの感じ方の解釈は最大限に必要なのだろう。
    神と共に強制収容所で死んだエリ・エゼルを書いたエリ・ヴィゼールはまたもやニーチェを引き合いに出して『夜明け』の主人公エリシャに語らせる。
    「哲学が僕を惹き付けていた。つまり僕はもろもろの出来事の犠牲者として。それらの出来事の意味を理解したかったのだ!僕は強制収容所で神に対し、または神に似ているところと言えば残酷さばかりの人間に対し、苦痛の怒りの叫びを発したかった。」この文章はニーチェの叫びからインスパイアードされている。

    「今日では全ての瞬間、全ての実践、全ての本能、現に実行されるすべての価値判断が、ことごとくキリスト教的である。にもかかわらず、近代の人間は依然とキリスト者と称して恥じない。近代の人間はなんというインチキな奇形児であるかと言わざるを得ないのである。」(隣人愛をめぐるニーチェの思想)
    このインチキな奇形児に対して、ニーチェも聖書と共に批判的に関わる。だがその関わり方に差異がある。バイブルならこのような近代の人間にキリスト者らしく生活をする事を勧めるが、ニーチェは我らにキリスト者であることをやめようと言う。
    「今日、キリスト者であるということは、恥知らずであるということだ!そしてそこに私の嘔吐が始まる。」とニーチェはいう。(隣人愛をめぐるニーチェの思想)
    この文は名ばかりの信仰者への回答であり嘔吐である。
    ニーチェ言わんとする、インチキな奇形児としての我らクリスチャンは、うかうかしているとニーチェの偽装の狂気の半分を引き継ぐことになる事を警告していた。
    それが前回書いたニーチェの本気と狂気の罠である。

    「キリストは外部より、むしろ内部からの批判を喜んだのかもしれない。」
          カント 1784年ベルリン月報

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