「士師記19章は?」2014年3月13日(木)

士師記を読んで「なぜ」という問いが深まります。それは神への疑問ではありません。むしろ神のなされることへの理解の深まりです。このように前回のサムソンに関してのウイークリー瞑想で書きました。読み続けていくうちに、その思いは解消されるより、深まります。こちらが納得できるかたちではないのですが、それが神の民の歩みであり、神の取り扱いなのだと受け止める以外にないのです。

サムソンの記述の後、17章と18章で、エフライムの
山地の出のミカの家で作られた彫像と鋳像とエポデとテラフィムを
中心とした物語が記されています。偶像がイスラエルの民の生活の
一部のようになっています。そして19章で、さらに信じられ
ないことが記されています。どのようなことが起こったのか、記す
のも憚るようなことです。このようなことが神の民の中で起こりう
ることなのかと、言いたくなるようなことです。これが聖書なのか
と、言いたくなるようなことです。

エフライムの山地の奥に滞在していたひとりのレビ人が、ユダの
ベツレヘムの女をそばめとして囲っていました。女がそれを嫌って
父の家に帰ってしまいます。それを迎えに行き、その帰りに立ち
寄ったベニヤミン族の町で起こったことです。町のならず者たちが
この男を求めて来るのです。男色を求めるのです。その代わりにこ
のレビ人は、自分のそばめを差し出します。そして「彼らは彼女を
犯して、夜通し、朝まで暴行を加え、夜が明けるころ彼女を放した」(25
節)と言うのです。

次の日このレビ人は、息の絶えていた彼女をろばに乗せて自分の
ところに帰ります。そしてその死体を12の部分に切り分け
て、イスラエルの国中に送るのです。それを見た一同が「イスラエ
ル人がエジプトの地から上ってきた日から今日まで、こんなことは
起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え
て、相談をし、意見を述べよ」(30節)というのです。

明らかに似たことが創世記19章のソドムの町で起こってい
ます。そこに住みついていたアブラハムの甥のロトのところに滞在
していたふたりの御使いに、町のものたちが「彼らをよく知りたい
のだ」といって求めます。同じようにロトは自分の娘を差し出そう
とするのですが、ふたりの御使いに助け出されます。そして結果と
して、ロトの家族はソドムから逃れることができます。

士師記もそれに続く20章と21章で、ベニヤミン族へ
のさばきと救済の物語が続きます。当然ベニヤミン族の出身である
パウロは、自分たちの先祖に起こったことは知っていたわけです。
その上であのローマ書3章の初めのパウロの陳述が浮かび上
がってきます。「彼ら(イスラエル人)のうちに不真実な者があっ
たら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるので
しょうか、絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を
偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(3,4
節)

士師記のこの前後で「そのころ、イスラエルには王がいなかく、
めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(21:
25,17:6,18:1,19:1)
と繰り返し記されています。しかし現実は、王が与えられても同じ
ようなことが繰り返されています。新約の時代になったら解決して
いるわけではありません。それは今でも、教会でも神学校でも繰り
返されています。パウロはその現実を受け止めています。自分の先
祖の歩みであり、自分たちの歩みなのです。

教会はしばしば、聖書からきれいな理想的な世界を築いて、こう
すれば大丈夫というテキストを作ってきました。それに従って信徒
を指導し訓練すれば問題は起こらないと思っています。現実にそう
でないことが起こると、うろたえてしまいます。信仰から離れてし
まうこともあります。多くの若い人たちはそれで親の信仰から離れ
ています。

士師記というか、旧約聖書の世界は、それに比べると何とも図々
しい生き方をしています。当然何をしても良いと言うことではあり
ません。どのようなことが起こっても神の民であることを辞めるこ
とはないのです。どのようなことが起こっても神の民として生きる
のです。

神の民の現実は、神にとっても現実です。神はそれを隠さないで
記しています。記すことで神の民の記憶に留めています。神がそれ
を知っておられるという記憶です。その記憶は私たちの意識を断絶
して届いてきます。思い出したくない現実です。しかし士師記19
章で、これ以上の悪いことはかつてなかったといわれているので、
それ以来どのようなことでも確実に神の現実として受け止めるので
す。きれい事の世界ではないのです。負いきれないことですが、神
の民の現実です。そして神にとっての現実は、私たちを責任ある者
として生かします。

上沼昌雄記

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「レヴィナスと『1Q84』」2014年3月6日(木)

レヴィナスと村上春樹の『1Q84』が結びつくことに気づいて、自分のなかで納得するものがある。結びつきそうもないふたりであり、当然ユダヤ人哲学者でタルムードの学者であるレヴィナスと小説家である村上春樹では、その表現方法は全く違うのであるが、どこかで似たような考えをしていて、それにこちらが共鳴しているのかも知れない。

レヴィナスにディアクロニー(diachronie)という考えがある。「隔時性」と訳されているが、訳さないでそのまま使っている人もいる。その対語がシンクロニー・共時性である。シンクロナイズ・スイミングを思い描いていただくと分かる。同じ動きを同時に行うのがシンクロニーである。それは統一が取れていて美しい。ディアクロニーはそれに反して断絶している時間のことである。時間の不連続性である。統一もなく、美しいわけでもない。

これはレヴィナスの「同」と「他」、自己と他者の対比に繋がる。すなわち、シンクロニーは自己のうちにすべてを包摂して同一性、全体性を求めるものであるが、ディアクロニーは他者によって自己が打ち砕かれて、無限が広がっていくことである。意識の連続と意識の非連続でもある。すなわち、ディアクロニーでは想像したこともないことが時間に関わってくる。記憶にもないことがよみがえってくる。意識の断絶である。

そもそもレヴィナスは、ギリシャ的な天と地という二元的な世界観ではなくて、ユダヤ人としての時間の流れで世界を捉え直そうとしていることが分かる。それで意識の断絶といっても、空間的な意味で超越的な世界を考えているのではなくて、時間の流れの中で断絶した不連続性を見ようとしている。しかしそのような思考が可能なのかとなると、まさにここにレヴィナスの他者の意味がでてくる。他者の顔が意識の流れを断絶して、「殺してはならない」と叫ぶからです。あるいは他者の困惑した顔が思いがけない世界に私たちを導くからである。

そのようなディアクロニー・隔時性が身近なかたちでどのように現れるのかと考えていたときに、村上春樹の『1Q84』がまさにそれではないかと気づいた。1984年に、主人公のひとりである青豆が高速道路からはしごで下りていったのが、1Q84の世界である。その世界に入っていったのであるが、むしろその世界が現実の1984年にどこからか入ってきて、ことを起こし、意味をもたらし、もうひとりの主人公の天吾とともに、忘れられた世界に引き戻されるのである。

1Q84では青豆はカルト集団のリーダーを殺すことになり、天吾は17歳のふかえりという少女の『空気さなぎ』という小説の書き直しをする。そこにはリトルピープルが登場し、月がふたつ出てくる。意識のどこかが切り替えられて断絶した世界がふたりを動かしていく。当然思いがけないことが展開する。それでいてそのすべてが連動していて結びついてくる。ふたりがもう一度結ばれる愛の物語である。

『1Q84』の読者は、そこで展開されていることに、こんなことは起こるはずがないと思うより、一見不思議と思えることが自分の心のどこかに触れてきて、意識は断絶されていながら、それでも納得しながら読んでいるのではないかと思う。レヴィナスの哲学書は難解であるが、他者とか他者の顔とか、沈黙の響きとか、意識の不連続性とかが出てくると、心のどこかに届いてくるものがある。納得するものがある。

村上春樹は小説を書くのは、「目覚めたままで夢を見るようなもの」という。確かに『1Q84』でも他の小説でもその通りであるが、良くここまで書けるものと驚く。実はレヴィナスも意識の断絶した世界を「目覚めた夢」と言っている。目覚めていながら意識が断絶して別の世界が展開することを認めているというか、そのよう世界がどこかに開かれていることに気づかせてくれる。単なる神秘的な世界ではない。なぜなら、そこでは他者の顔が現れて「殺してはならない」と叫んでいるからである。そこにレヴィナスは倫理の始まりを見ている。

ユダヤ人哲学者としてその倫理はモーセの律法を前提にしている。その繋がりで、ディアクロニー・隔時性としての時間の断絶性において神を捉えようとしている。基本的に西洋の神はシンクロナイズされた「同」の世界に中に閉じ込められていると見ているからである。「同」の世界で概念化され、体系化された意味での絶対者としてみているからである。体系化もされないで、意識にも上らないでなお神を語ることをレヴィナスは試みている。神の語りは意識の外から届いてくるものだからである。

神の民の物語がどれだけ不可解であっても、それはなお神の物語でもあるからである。ホロコストを経験したレヴィナスは神と世界をそのように見ている。断絶した時間、それは聖書の物語の世界でもある。

上沼昌雄記

「それが主によることだとは知らなかった」2014年3月 5日(水)

士師記を続いて読んでいます。記述されている内容通りに読んだ

ら、どのように捉えたらよいのかと惑わされる場面に直面します。
ダン族の家族に生まれたサムソンが、いきなりペリシテ人の女に心
が惹かれ、親の反対を押し切って、自分の妻にするのです。サムソ
ンの両親から見れば、割礼を受けていないペリシテ人の娘ですの
で、反対するのは当然です。そんなことは関係なくサムソンは突き
進みます。その時にサムソンの両親は「それが主によることだとは
知らなかった」(14章4節)と言うのです。

それではサムソンは知っていたのかというと、どうもそのような
素振りもありません。サムソンはただ自分の心の求めに従って行動
しています。サムソンの最後まで続きます。といってもその都度、
神の霊に動かされて行動しているように説明されています。それは
しかし、新約の私たちから見たらそんなことが許されるのかと思う
かたちで進んでいきます。結構女性が関わってくるのです。ふたり
のペリシテ人の女と、その間に遊女が登場します。

最初のペリシテ人の女には名前はないのですが、サムソンがペリ
シテ人にかけた謎の意味を、彼女の求めで明かしてしまいます。そ
れでサムソンは怒って父の家に帰っていきます。その間にサムソン
の妻は客のひとりの妻になります。それでサムソンはジャッカル
300匹を使ってペリシテ人の畑を焼いてしまいます。今度はペリシテ
人が怒ってこの女とその父を焼いてしまいます。

二番目の女にはデリラという名前があります。サムソンの力の秘
密を、また求めに応じて明かしてしまいます。髪の毛がそり落とさ
れて、力を失い、捕らえられ、目をえぐり出され、牢につながれま
す。しかし髪の毛が生えてきて、力が回復してきて、ペリシテ人が
祝宴をしているときに、寄りかかっていた柱を引き抜いて、民全体
とともにサムソンは自害するのです。

しかしこの間サムソンは20年間イスラエルをさばき、治め
ています。そのためにペリシテ人の支配を除く必要がありました。
そのためになされたというか、サムソンがなしたことです。その目
的は果たされました。しかしその方法はサムソンの両親は知るよし
もありませんでした。サムソン自身がそれを知っていたのかも分か
りません。むしろ自分の情動に動かされて行動をしたような感じで
す。しかもその都度神の霊に動かされたかのような書き方です。

振り返ってみると、このようなサムソンの行動から、これが神の
やり方でもあるというメッセージを聞くことも、語ることもなかっ
たように思います。チェーン式聖書ではこの箇所を「神はしばし
ば、人間のわがままや、かたくなな態度を通しても、ご自分の御旨
を行われることがある」と言っていますが、当然そうでない方が良
いという意味合いで言われています。ましてそれが神のやり方とは
考えていません。士師記自体が神にそむいた民への神の戒めのため
ととっています。それが新約の私たちへのメッセージと言います。
あたかも士師記で記されていることはそのためだけに起こったと見
ています。自分たちの歩みとは見ていません。

当然どのようなこともして良いという意味ではありません。ただ
神のわざがなされるときには、私たちの理解を超えたことが起こり
うるということです。私たちの納得のいくように説明しなおす必要
はないのです。神の民の物語は神の物語でもあります。神のなされ
たこと、神のなす事、それはすべて納得がいくわけではないので
す。むしろ納得がいかないで、どうしてなのかという問いを自分の
うちに抱えることです。その都度自分のなかで何かが断ち切られ
て、異なった次元で生かされることです。自分の意に反するかたち
で神が働かれていることを受け入れる ことです。

士師記を読んで「なぜ」という問いが深まります。それは神への
疑問ではありません。むしろ神のなされることへの理解の深まりで
す。判断停止を踏まえた上での神の領域への理解の広がりです。神
のなされることへの了解と参与です。自分の意に反しでも関わるこ
とのできる神の領域です。これが主によることだと、自分自身に言
い聞かせることです。

上沼昌雄記