「お花見」2014年4月14日(月)

 思いがけなく花見をすることができました。日本の桜前線は東北 
を北上しているようですが、ここ首都ワシントン近くのベテスダに 
あるワシントン日本人キリスト教会の集会に使われているベテスダ 
長老教会の庭に、満開の桜が咲いていました。礼拝が午後2時 
に行われています。早めに着いたのですが、正面の入り口は閉まっ 
ていてどこからはいるのか分からないで妻と佇んでいました。それ 
が満開の桜の下でした。幹を眺めると結構の年輪を経ていることが 
分かります。入口を捜しに裏に回ったなら、この教会の牧師の上原 
隆先生の奥様がフェローシップフォールの入り口で待っていてくれ 
ました。その間妻は満開の桜の下で感激にしたっていました。

 上原先生とはしばらくぶりにお会いしました。義樹がアナポリス 
の海軍兵学校にいたときに伺いました。義樹自身もジョージタウン 
大学でのマスターの学びのために上原先生のお宅にお世話になりま 
した。先生はつい最近キモセラピーの治療が始まりました。8 
月まで続くようです。体長の管理と維持、そして回復のために祈ら 
されます。近くでしたらお助けしたい思いです。

 上原先生の印象は神様への誠実さです。神様から与えられた使命 
への誠実さです。与えられた群れがどのようになろうとも民と共に 
神への礼拝を第一にしています。首都ワシントンの関わりで政府関 
係者や、近くにアメリカの医療研究の総元締めのようなNIHが 
あり、その関係の研究者が入れ替わり先生の教会で養われて、日本 
に戻って大きな働きをしています。日本でのワシントン日本人キリ 
スト教会の関係者の群れは一大勢力になっています。そのような人 
たちを送り出す働きを誠実に続けておられます。先生は私より年配 
なのですが、ワープロとコンピュータの使い方をマスターされて、 
週報と写真入りの「ポトマック便り」を送ってくれます。飾らな 
い、それでいて読み応えのある記事に溢れています。

 礼拝後茶菓をいただきながら、ただただ送り出すような働きをし 
てこられたのですが、一番祝福されたのは自分であると述懐されま 
した。群れが大きくなるわけでもありません。しかし先生が関わっ 
てこられた方たちがそれぞれのところで大きな花を咲かせ、実を結 
んでいます。礼拝後報告の時に、始まったばかりのキモセラピーの 
治療のことを隠さないで話されました。体力的に厳しいところを通 
らされます。そのような先生の姿を拝見させていただきながら、こ 
の教会の正面で満開に咲いている桜の木の幹が思い浮かんできまし 
た。あちこちこぶだらけのごつごつした幹です。桜は見事ですが、 
幹はその花を咲かせるために生みの苦しみをしているかのようです。

 まもなく桜前線は弘前に到着するのだと思います。季節外れだっ 
たと思いますが、弘前城の桜の木を観ることができました。その幹 
の凄さに感動いたしました。生みの苦しみを何百年とうちにため込 
んでじっとしているのです。年ごとにその時が来たらその実を眺め 
て、自分の使命を確認しているかのようです。

 今回義樹の友人の結婚式が4月5日(土) 
に海軍兵学校のチャペルであり、それに招かれて、昨年ダラスから 
ワシントン郊外に移った義樹家族と近くにいる泉を訪ねて、しばら 
く滞在することができました。花見は想定外でした。ポトマック川 
の桜も車から眺めることができました。そして満開の桜の下で妻と 
佇んでいたときに、目の前にそれこそじっとして佇んでいるその桜 
の幹に、忘れられない印象をいただきました。

上沼昌雄記

「および女と子どもたち、ならびに在留異国人」2014年3月  28日(金)

 これは神の民がヨルダン川を渡って約束の地に入って、エバル山 
とゲリジム山でヨシュアが祝福とのろいの律法のことばをことごと 
くと読み上げたときに記されたことです。「モーセが命じたすべて 
のことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子ど 
もたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかっ 
たことばは、一つもなかった。」(ヨシュア記8:35)

 ユダヤ人哲学者のレヴィナスの「他者の思考」がどこから来てい 
るのか関心を持って読んでいます。タルムードの学者でもあるレ 
ヴィナスが旧約聖書との結びつきで考えているのは当然です。他者 
を視点に、存在のあり方、私たちの意識の方向性、倫理の優位性 
を、レヴィナスは波が押し寄せるように繰り返し語っています。

 その背後には、2千年以上のギリシャ哲学に基づいた西洋の 
「自己の思考」の限界をホロコストで体験したことがあります。哲 
学の目標である自己の確立が、神学の目標である自己の救いの確立 
を援護していることを見据えているからです。自己を中心とした観 
念による世界の組織化と、自己の救いの確立のための神学の組織化 
がしっかりと結びついています。そして組織の防衛のために、暴力 
を許してしまうのです。異端審問と火炙りは西洋のキリスト教の中 
ででてきたのです。その延長線でホロコストが出てきています。

 ヨシュア記のこの記述は、レヴィナスのタルムードに関する論文 
の中で、シナイ山でモーセを通して律法が与えられたこと、申命記 
で記されているようにモアブの平原で律法が繰り返し確認されてい 
ること、それに続いて約束の地に入ってからヨシュアを通してさら 
に繰り返されていることとして指摘されています。当然その解釈が 
タルムードでなされ、いまだに続いていることが論点になっています。

 この指摘に中でレヴィナスは、イスラエルの全集会だけでなく、 
「および女と子どもたち、ならびに、、、在留異国人」が明記され 
ていることに、律法の普遍性と同時に、律法の中に「他者の思考」 
の起源を認めています。すでにモーセを通しての律法で語られてい 
ることです。「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはな 
らない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人で 
あったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませては 
ならない。」(出エジプト記22:21,22、参 
照:レビ記19:33,34、申命記27:19)

 この律法に記されていることが、ヨシュアを通して、その通りに 
なされていることに「他者の思考」の具体性を見ています。モーセ 
の律法は、7年目の奴隷の解放とヨベルの年のこと、さらに逃 
れの町のことも含めて、女と子どもたちという弱い者、さらに異邦 
人に対して深い配慮がなされています。異邦人はイエスの系図にも 
しっかりと入ってきます。しかもひとりだけではないのです。

 キリスト教倫理は、アリストテレスの倫理の影響を受けたこと 
で、面倒な議論を繰り返すことになりました。そのようなギリシャ 
哲学の影響を除いて、旧約聖書からの流れで聖書の倫理を見ると、 
むしろしっかりとした女性観や家庭観、そして他者に対する視点が 
展開されていることが分かります。それがタルムードでの解釈の積 
み重ねで確認されてきているかのようです。レヴィナスを通して、 
西洋の哲学と倫理の行き詰まりに、新たな方向が示されているのか 
も知れません。N.T.ライトは After You Believe とい 
う書で、そのアリストテレスの倫理に対して、イエスとパウロの倫 
理を明確にしています。

 レヴィナスは確かに哲学者として「他者の思考」を抽象概念で説 
明しています。「内存在性からの超脱」とか、「意識の断絶」と 
か、「隔時性」とか、「存在の彼方」ということで説明をしていま 
す。しかし、その背後には具体的な事象があって、しかもそれが経 
験として受け継がれていることを基にして語られていることが分か 
ります。いわゆる、抽象概念の時間の中での適用ではないのです。 
時間の流れのなかでの存在と意識の繋がりでなされている現象を描 
いているのです。当然、他者があり、女性がおり、家族があり、子 
どもたちがおり、社会があり、戦争があり、意に反したことがあ 
り、苦悩があり、死があるのです。

 隣人のために祈ることも、他人のことで意に反することでもがく 
ことも、自分が生きているのは自分のためではないと言い聞かせる 
ことも、そう思うことで世代に渡る神の民としての生き方を確認す 
ることも、結局存在の面相臭さは避けられないと納得することも、 
どこかで「他者の思考」を自分なりに取り入れ、旧約聖書から具体 
的に確認することで、自分のなかの意識の断絶を経験させられてい 
ることかも知れません。そうすることで神の民の仲間に加えられて 
いるのかも知れません。

上沼昌雄記