「および女と子どもたち、ならびに在留異国人」2014年3月  28日(金)

 これは神の民がヨルダン川を渡って約束の地に入って、エバル山 
とゲリジム山でヨシュアが祝福とのろいの律法のことばをことごと 
くと読み上げたときに記されたことです。「モーセが命じたすべて 
のことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子ど 
もたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかっ 
たことばは、一つもなかった。」(ヨシュア記8:35)

 ユダヤ人哲学者のレヴィナスの「他者の思考」がどこから来てい 
るのか関心を持って読んでいます。タルムードの学者でもあるレ 
ヴィナスが旧約聖書との結びつきで考えているのは当然です。他者 
を視点に、存在のあり方、私たちの意識の方向性、倫理の優位性 
を、レヴィナスは波が押し寄せるように繰り返し語っています。

 その背後には、2千年以上のギリシャ哲学に基づいた西洋の 
「自己の思考」の限界をホロコストで体験したことがあります。哲 
学の目標である自己の確立が、神学の目標である自己の救いの確立 
を援護していることを見据えているからです。自己を中心とした観 
念による世界の組織化と、自己の救いの確立のための神学の組織化 
がしっかりと結びついています。そして組織の防衛のために、暴力 
を許してしまうのです。異端審問と火炙りは西洋のキリスト教の中 
ででてきたのです。その延長線でホロコストが出てきています。

 ヨシュア記のこの記述は、レヴィナスのタルムードに関する論文 
の中で、シナイ山でモーセを通して律法が与えられたこと、申命記 
で記されているようにモアブの平原で律法が繰り返し確認されてい 
ること、それに続いて約束の地に入ってからヨシュアを通してさら 
に繰り返されていることとして指摘されています。当然その解釈が 
タルムードでなされ、いまだに続いていることが論点になっています。

 この指摘に中でレヴィナスは、イスラエルの全集会だけでなく、 
「および女と子どもたち、ならびに、、、在留異国人」が明記され 
ていることに、律法の普遍性と同時に、律法の中に「他者の思考」 
の起源を認めています。すでにモーセを通しての律法で語られてい 
ることです。「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはな 
らない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人で 
あったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませては 
ならない。」(出エジプト記22:21,22、参 
照:レビ記19:33,34、申命記27:19)

 この律法に記されていることが、ヨシュアを通して、その通りに 
なされていることに「他者の思考」の具体性を見ています。モーセ 
の律法は、7年目の奴隷の解放とヨベルの年のこと、さらに逃 
れの町のことも含めて、女と子どもたちという弱い者、さらに異邦 
人に対して深い配慮がなされています。異邦人はイエスの系図にも 
しっかりと入ってきます。しかもひとりだけではないのです。

 キリスト教倫理は、アリストテレスの倫理の影響を受けたこと 
で、面倒な議論を繰り返すことになりました。そのようなギリシャ 
哲学の影響を除いて、旧約聖書からの流れで聖書の倫理を見ると、 
むしろしっかりとした女性観や家庭観、そして他者に対する視点が 
展開されていることが分かります。それがタルムードでの解釈の積 
み重ねで確認されてきているかのようです。レヴィナスを通して、 
西洋の哲学と倫理の行き詰まりに、新たな方向が示されているのか 
も知れません。N.T.ライトは After You Believe とい 
う書で、そのアリストテレスの倫理に対して、イエスとパウロの倫 
理を明確にしています。

 レヴィナスは確かに哲学者として「他者の思考」を抽象概念で説 
明しています。「内存在性からの超脱」とか、「意識の断絶」と 
か、「隔時性」とか、「存在の彼方」ということで説明をしていま 
す。しかし、その背後には具体的な事象があって、しかもそれが経 
験として受け継がれていることを基にして語られていることが分か 
ります。いわゆる、抽象概念の時間の中での適用ではないのです。 
時間の流れのなかでの存在と意識の繋がりでなされている現象を描 
いているのです。当然、他者があり、女性がおり、家族があり、子 
どもたちがおり、社会があり、戦争があり、意に反したことがあ 
り、苦悩があり、死があるのです。

 隣人のために祈ることも、他人のことで意に反することでもがく 
ことも、自分が生きているのは自分のためではないと言い聞かせる 
ことも、そう思うことで世代に渡る神の民としての生き方を確認す 
ることも、結局存在の面相臭さは避けられないと納得することも、 
どこかで「他者の思考」を自分なりに取り入れ、旧約聖書から具体 
的に確認することで、自分のなかの意識の断絶を経験させられてい 
ることかも知れません。そうすることで神の民の仲間に加えられて 
いるのかも知れません。

上沼昌雄記
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