「クリスチャンと格闘技」2014年5月5日(月)

 クリスティアニティー・トゥデイの4月号は、N.T.ラ 
イトを表表紙に載せ、Surprised by Wright という特集記事 
を載せています。N.T.ライトを無視してキリスト教は語れな 
いという現実を物語っています。それだけでも興味があるのです 
が、別の記事でボクシングとその関係の格闘技を取り上げていま 
す。格闘の写真も載せているので、多分興味本位で書かれているの 
だと思ってそのままにしておきました。しかし、妻が読んでニー 
チェのことが言及されているというので、目を通すことになりました。

 記事は何と大学の哲学の教授で、しかもプロのボクシング・ト 
レーナーという人が書いています。その組み合わせ自体にも興味を 
覚えます。またそのような人がいることと、そのような記事を取り 
上げていることに、目を見張らされます。以前のクリスティアニ 
ティー・トゥデイはどこかで取り澄ましたところがあったのです 
が、脱皮してきているのかも知れません。別の記事では、少年時代 
に近所の男の子に性的暴力を受けことのトラウマで苦しんできたあ 
るコラムニストのことを載せています。

 スポーツとはいえ、相手を打ちたたいてマットに沈めていくの 
は、すでにクリスチャンのすべきことではないし、観るべきでもな 
いという雰囲気があります。しかしこの記事で、クリスチャンのボ 
クサーのことを紹介して、その相手同士が、自分のうちにある恐れ 
と怒りを自分のうちに集中させて、ぶつかり合っていくことで、逆 
に互いに対して敬意を覚え、謙虚にさせられるという指摘をしてい 
ます。ただリングの上のふたりが、まさに裸体で全面的に自分を打 
ち出してぶつかっていくのです。それを経験した人が、自分の限界 
を知り、他の人に対してへりくだって接していくというのです。

 小学5年生から高校を終わるまで柔道をしていました。誰も 
信じてくれないかも知れませんが、初段で黒帯をいただいていま 
す。ボクシングと柔道は違うのですが、記事を読んで、自分のうち 
にある恐れと怒りを体内に集中させて相手に向かっていく、その感 
覚がよみがえってきました。そのエネルギーは相手を打ち負かすこ 
とで、あるいは打ち負かされることで、見事に発散されます。そし 
て自分を知って引き下がります。

 そのような件の中でニーチェのことが出てきます。誰もが怒りと 
フラストレーションを持つのであるが、ニーチェのキリスト教批判 
の一つは、クリスチャンがそのような怒りに対して触れることがで 
きなくなっていることだと言います。確かにそのような感情を持つ 
こと自体が罪のように思わせ、良心の疚しさを駆り立てて、ただ赦 
しを願い、後は何もなかったように振る舞う姿勢に、ニーチェは嫌 
悪感に近いものを持っています。多くの人はそのようなクリスチャ 
ンの偽善性を見抜いて信仰から離れています。

 それで不思議に、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の第1 
部の終わりに描写されている「皮剥」のことを思い出しました。皮 
を一枚一枚はいで、死に至らせる場面です。その場面をもう一度読 
んでみました。どうしてそのような残虐なことをあえて書く必要が 
あるのかと思わされます。しかし今は、それは小説の流れとして必 
要なことだと分かります。妻にその件を話しました。納得したようです。

 神がアブラハムと契約を結んだときに、雌牛と雌やぎと雄羊と山 
鳩が持ってこられ、アブラハムがそれらを真っ二つに切り裂いてい 
く場面があります。当時の契約のしるしとして、両方の当事者がそ 
の間をくぐって、契約が不履行になったときにはそのようになると 
いう意味合いがあるようです。その後アブラハムが深い眠りに陥 
り、子孫が異国の地で400年間奴隷となり、その後解放される 
ことを予告しています。現実にこの後の神の民のそむきと、神の取 
り扱いは、裂かれた動物の間を通っているような歩みです。フラス 
トレーションと怒りの連続です。聖書はその感情を隠さないで出し 
ています。そのようなものがないかのようには振る舞っていません。

 ヘビー級の王者に二度輝いたジョージ・ファーマンが、ボクシン 
グは若者を暴力から遠ざけると言っていると紹介されています。彼 
自身ボクシングを通して信仰を持っただけでなく、後には牧師にも 
なっています。クリスチャンはフラストレーションも怒りもないか 
のように振る舞うのですが、実質的には陰湿な行為に出ることが良 
くあります。ヨナのように神に怒りをぶつけて、自分との闘いを済 
ませて、後は神のわざに責任を持って取りかかる時です。そして、 
ヨシュアのように「強く、雄々しく」前進する時です。

上沼昌雄記
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「神の国の宴会に」2014年4月22日(火)

 山の教会のイースター礼拝に出席いたしました。全く出たり入っ 
たりで、新しく来ている人たちには、私たちは新来会者と思われて 
いるのかも知れません。同時に私たちが礼拝にいなくても、またど 
こかで旅をしているのだろうと思っていてくれるようです。それで 
も礼拝に出席する度に、私たちにとっては家に戻ってきたような思 
いになります。

 礼拝のなかの報告で、最近金曜日の朝にブレックファーストを用 
意して、誰でも食べに来ることができる奉仕を始めたことを知りま 
した。最初は20名ほどで、2回目は50名の人が食 
べに来たと言うことです。そのためにボランティアとして奉仕した 
人たちに感謝の意を表しました。現実にはどのようにされているの 
か分からないのですが、その必要がフォレストヒルの町にあること 
を知らされます。

 この町は分水嶺の上にあります。その昔といっても1850年 
代にゴールドラッシュで栄えた町です。サクラメントまでは1 
時間以内で行けるので、ベットタウンにもなっています。森の中に 
それなりの生活が成り立っている人たちが平和に暮らしています。 
私たちは25年前に東京からこの町に移り住んで、この山の教 
会に集うようになりました。現在は別の町に住んでいるのですが、 
それ以来この教会に通っています。

 教会はこのベットタウンの入り口に位置しているので、今までは 
それなりの人たちで成り立っていました。しかし今の牧師が来てか 
ら、様変わりを始めました。この教会に一番長くいる97歳の 
黒人のスラッツおばさんのお孫さんです。お孫さんといっても60 
歳近い人です。どのようにコンタクトを始めたのか分からないので 
すが、この町のどこかにひっそりと住んでいる人たちが来るように 
なりました。ホームレスの人たちだけでなく、社会からは忘れられ 
ているような人たちが、居場所をみつけたように集ってきています。

 イースター礼拝の後に持ち寄りの食事会がありました。牧師が何 
度も階下での食事会に残るように勧めていました。私たちも会った 
ことのない女性がただひとりで食べていたので、一緒にテーブルに 
座って、挨拶をして、食事をいただきました。この女性は自分のこ 
とをノンストップで話していました。見渡すとあちこちにホームレ 
スの人が食卓に加わっていました。その人たちは必ずしも居心地が 
良くないのだと思うのですが、私には思いがけない場面が展開され 
ていたので、食事をとりながら、目の前の女性の話を聞きながら、 
見回していました。

 妻の妹は別のテーブルでひとりのホームレスの人と話をしたので 
すが、その人がほかのホームレスの人が礼拝には来ないで食事にだ 
け来ていることに腹を立てていたと言うことを後で聞きました。牧 
師がその人のところに座って、それでも構わないのだと説得して落 
ち着いたということです。

 そんな話を、父の病院でのアポのためにロス郊外に向かうドライ 
ブの中で、妻が話してくれました。そのような食事会の場面を振り 
返りながら、イエスの天の御国のたとえで、王子のために設けられ 
た結婚の披露宴の話を思い出しました。招かれた人たちが来ない 
で、大通りにいた「良い人でも悪い人でも」(マタイ22: 
10)集められて、「宴会場は客でいっぱいになった」という、神の 
国での宴会の場面です。

 教会はどこかでいわゆる「良い人」の集まりになり、より整えら 
れていきます。そうでなくてもそのように振る舞います。あたかも 
そうであるかのように思って、互いにそのように要求します。教会 
は、結局は「良い人」の居心地の良いところとなります。それ以外 
のあり方を考えることも、その可能性を求めることもなくなります。

 山の教会に今まで経験したことのない人々が集うことで、少なく 
とも私にとっては正直どのように対応したらよいのか戸惑うことで 
す。教会自体もどのようになるのか見通しが立たないところです。 
同時にそれを心配していたら何もできません。ただそれに近いこと 
が神の国の宴会で起こると言われています。その意味では、それは 
神のことなので思い煩うことのないことです。むしろ楽しみたいと 
思います。どのように展開していくのか、期待したいと思います。

上沼昌雄記