「待つ」2014年7月21日(月)

 父はモルヒネで痛みを抑えています。それでも過ぎる土曜日は、 
朝から吐き気があり、午後には食べたものを全部吐き出しました。 
夕方には熱が出てきました。妻が担当医との関係での機関と相談し 
て、ER(緊急病棟)に連れて行くことになりました。

 父は落ち着いてきました。それでも吐き気の原因がどこにあるの 
か、必要な検査をしてくれました。そんなことで家に戻ってきたの 
が朝になってしまいました。長男も週末に祖父に会いに来ていまし 
た。一晩中付き合ってくれました。

 聖日の午後3時に両親の仲間が訪ねてくることになっていま 
した。昼食の後、父の様子を確認して、私も寝不足を解消すること 
にしました。2時半に目が覚めて居間に行きました。他の家族 
もそれぞれ休んでいたのですが、父は一人で立ち上がっていまし 
た。3時の来客に備えようとしていました。

 父は手洗いで顔を洗い、髪を整え、パジャマのままでしたがガウ 
ンを掛けて身支度をしました。父の手洗いには真夜中でも付き合っ 
ています。3時の来客までどのようにするのか、黙って様子を 
見ていました。それなりに居間が整って、愛用の肘掛け椅子に座り 
ました。まだ15分ほどありました。

 私も居間で待つことにしました。肘掛け椅子に座っている父の顔 
は、病室にいるときとは打って変わって、端正で整っていました。 
疲れ切った様子はどこにもありません。来客を最善の状態で待ち受 
ける威厳を伴った姿です。肉体的な状態がどうであろうと、精神的 
に来客を心か待ち受ける姿です。近寄りがたいものを感じました。

 そんな父の姿を見ていて、この5月19日にも施設に訪 
問した、この春に数えで105歳になられた大村晴雄先生の姿が 
浮かんできました。この数年寝たきりですが、訪問する度に、私た 
ちを迎える先生の端正でそして威厳を伴った姿に感動します。私た 
ちの訪問を分かっていて心待ちにしてくれていることが分かりま 
す。先生の顔にはつやがあり、握りしめる手は温かみがあります。

 すでに目も見えず、耳もほとんど聞こえないのですが、ご子息か 
ら私たちの来訪を聞いて、じっと夜明けを待つように待っていてく 
れる大村先生の姿が、居間で静かに来客を待っている父の姿と重 
なってきました。それは誰にも犯されない神聖な瞬間です。自分の 
状態がどのようであっても、待つことが自分の使命であるかのよう 
に受け止めている絶対的な決断の時です。

 「主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20) 
待つこと、それはクリスチャンの生きる決断です。こちらの状態が 
どのようであっても、来臨を待つ絶対的な決断の時です。そのため 
に身を整えている大村先生と父の姿です。待つことが、誰にも犯さ 
れない神聖な瞬間なのです。近づくことを許さない厳粛な時なのです。

 そのような時を、居間で来客を待っている父が伝えてくれまし 
た。どのような人たちが来るのは知らなかったのですが、7名 
の来客と会話を交わし、祈りをなし、賛美をしている様子を、自分 
の部屋に戻って聞いていました。

上沼昌雄記
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