「それでも自分たちのため?」2014年8月13日(水)

この週末に北カリフォルニアの家に戻りました。郵便物の整理

や、植木の水まき、家の周りの整備をして、必要なものを持って月
曜にはロス郊外の両親のところに舞い戻ってきました。北カリフォ
ルニアの同じ町に住んでいる義妹も両親の応援に来ていて、2
週間ごとにそれぞれの郵便物を確認するようにしています。

片道8時間近いドライブをします。ちょうど中間点にレスト
ラン・ホテルをかねた休憩地があります。そこまで一気にドライブ
して、次の2時間を妻がドライブして、最後の2時間の
ドライブで到着するパターンになっています。この帰りのドライブ
で妻に代わったときに、山の教会の牧師のメッセージのCDを
聞くことになりました。しばらく礼拝も失礼しているのです
が、CDでメッセージは聞くことができます。

6月初めの 「受けるより、与える者は幸いである」
という有名な箇所からの 礼拝メッセージでした。教会はボラ
ンティア活動が活発で、ホームレスの人たちや必要のある人たちへ
の支援を積極的に始めています。フォレストヒルの町の人たちもそ
の活動に注目してきています。メッセージはそのことを踏まえてな
されています。自分たちのボランティア活動は決して自分たちの栄
誉のためでなく、神の栄光のためであることを強調しています。そ
れでもフォレストヒルの町が自分たちの活動のために祝されている
ことを暗に認めています。

聞き終わって興味があったので、妻にどう思うかと聞いてみまし
た。妻も気になったようで、そちらはどのように思うのかと聞き返
してきました。それで、実はあのユダヤ人でタルムードの学者でも
ある哲学者レヴィナスの他者を視点に捉え直していく意味を、聞き
ながらもう一度考えていたと伝えました。こちらの言いたかった意
味が分かったようです。妻もボランティア活動は当然であるので、
この種のメッセージはしないで、聖書そのものの物語に注目してい
た方がよいという意味合いの返事をしてきました。自分たちのして
いる活動がどうしても中心になってしまうのです。どんなに神の栄
光のためといっても、「それでも自分たちのため」になってしまいます。

この辺はまったく難しいところです。他者のため、困っている人
たちのためといっても、その人たちに向かうこちらの姿勢と意味づ
けがいつもテーマになるからです。それをすることの必要と、それ
がクリスチャンのなすべきことであるという、改まった問いを持っ
て臨むことしかできないからです。自分の救いの確立とそれなりの
安定した信仰生活の上で考えられることなのです。自己確立を前提
にしたボランティア活動なのです。

レヴィナスは、そのような問いの前にすでに有無を言わせない
で、他者からの有責性を負わされていると言います。こちらの姿勢
とか意味づけの前に、負わされている責任であるというのです。旧
約聖書のトーラー・律法で言われている通りです。あなたがたの中
で「やもめ、みなしご、在留異国人が決して飢えることがないよう
に」ということで、神の民の社会は初めから成り立っているので
す。他者はこちらが問いかける前からすでにその責任をこちらに投
げかけているのです。神の民としての生き方は他者によって決めら
れています。神の民はそのようにしてこの地での責任を果たしてい
くのです。

キリスト教を踏まえた西洋の世界は逆に、自我の固執、自己確立
に終始してきました。ニーチェのキリスト教批判と西洋文明批判も
そこに向けられています。キリスト教自体が自己愛を助長している
のです。私の救い、私の霊性、私の平安、そのために教会が回転し
ているのです。

そんなことを車の中で話をしてきたのですが、妻はそれでも牧師
の意図は正しいので、できるところで応援していくべきであるとあ
えて言います。確かに妻は無言で実行しています。そしてそれぞれ
が負わされているというか、問いかけられている他者からの声に応
えていくことが自分たちの生きる道であると、夕暮れかかったカリ
フォルニアの草原をドライブしながら納得することになりました。

何と言ってもレヴィナスの興味深いのは、それでは誰が一番の他
者か、それは妻であると、あっさりと言うことです。一番身近な者
が一番の他者なのです。その他者によってこちらの生き方が、こち
らが決める前に、すでに決まっているからです。人生は意に反して
いるのです。

上沼昌雄記

“「それでも自分たちのため?」2014年8月13日(水)” への 2 件のフィードバック

  1. 「パティー・スミス、村上春樹を語る。」

    NYロックの女帝であり、ルー・リード他界後の重要な生き証人であるパティー・スミスはニューヨーク・タイムズのブックレヴューで村上春樹を書いた。
    以下は2〜3日前に発売されNYタイムズに掲載されたパティー・スミスの特別寄稿である。

    「わたしはこの作品がより共通な人間の体験に根差したものになるという漠然とした予感はしていたし、わたしの好みである『ねじまき鳥クロニクル』でところどころ垣間見せていく異質な皮膚感覚はあまり味わえないのだろうとは思っていた。しかし、わたしは妙な調べが形作られていくのを、癒されえない小さな傷に巣食って少しずつ大きくなっていくのをこの作品で感じ取った。この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を書くために村上が自身のどのような側面を源泉にしたとしても、それは村上がこれまで成し遂げてきた象徴主義的な労作の数々の遺跡のどこかに横たわっているものであるはずなのだ」

    「この作品は村上作品が初めてという読者にも読み慣れているという読者のどちらにも向いている内容となっている。この作品には不思議なわかりやすさがあり、それはあたかも村上自身が書きながら物語が自ずからひもとかれていったようでもあり、時にはまったく別な作品の前章となる作品であるように思えてくることもある。意図的なのか、あるいは翻訳のせいなのか、読んでいてどこかぎこちなく、流れも粗い。しかし、それでいてある達観が、特に人が他者に対してどう影響を与えているかという意味で、如実に描かれている瞬間もある」

    「この作品は村上のまた別な側面を露わにしているが、それがなにかと把握するのは容易なことではない。度しがたいほどにつかみどころがなく、曖昧で、しかし、果敢に成熟の新たな段階へともがき進んでいる作品だ。村上にとって一つの脱皮なのだ。これは『ブロンド・オン・ブロンド』ではなく『血の轍』なのだ」

    村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は先週英語翻訳版が全米で発売されたばかり。
    パティーは文章の最後でボブ・デイランのターニング・ポイントとなった2作品のアルバムタイトル『ブロンド・オン・ブロンド』と『血の轍』(ブラッド・オン・トラックス)を上げて的確でわかりやすい比較をしている。
    音楽と文学に精通していないとわかりにくい表現だが、ディランのこの2作品を聴いていれば意味はわかる。
    ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』と『血の轍』はディラン転換期の重要な作品であり、双方とも傑作の部類に入るのだが、実際は好みの問題に分かれる。
    この比喩はパティーらしいというか同世代的に読んで、もの凄くウマい表現である。
    なので読んでいて思わず膝を叩いた!
    「なるほどね!」である。
    日本人が日本人の村上春樹をわかった様に知ったかぶりして書く文章よりも良く理解できた。

    パティーは、文学にも深く、自身のバンド、パティー・スミス・グループの演奏前にランボーやベルレーヌのポエトリー・リーディングを行なうほど芸術や他方面での視野を広げていた才女である。
    「キリストは誰かの罪の為に死んだが、でもそれは私の罪の為じゃない!」と言い切ったタフな女でもある。

    今回の『色彩を持たない、、、。」にパティーは微妙な解釈を与えているが、僕はこの作品をどうしても好きになれない。というか、こんな本が出版された事に異議がある。
    この本のおかげで『1Q84』は金持ち作家の書いた道楽小説に格下げされた。『色彩を持たない、、。』を無名の新人作家が書いたのなら、その新人の作家の生命はそれで幕を閉じたであろう。
    名声と知名度に人気がある村上春樹だから多めに見られている感はある。
    パティーもそれを見越した発言を書いている。
    村上は脱皮し変化の過程であると、、、。
    作品の酷さに比例して言葉を選んでいるのがよくわかる。
    この作品を前に、ノーベル文学賞発表当日、中央線沿線の文学喫茶では受賞祝いにと村上春樹文学に出て来る気持悪い食い物、ホットケーキのコーラ掛けなるものが出されたらしいが、こんな文学音痴の連中の狂想を後に僕はすでに村上春樹から遠く離れていたのである。「駄目だ!こりゃ、、、、」である。
    しかし、『1Q84』はこれからの世代、まだ生まれていない世代に秘かに読まれて行くと僕は思う。
    作家村上春樹が狙った将来の古典文学への変換である。
    『1Q84』には心地よい隠れ場所が随所に点在するからだ!
    それは時間が経過しても変化しない場所。
    良い文章としての読み手の隠れ場所なのである。
    人によりその心地良い隠れ場所はキモイのかもしれないが、確かに読み手が変われば、永遠にとどまっていたい場所にも思える。
    彼がこの後どう変化するのかは予測はつかないが、僕にとっての『色彩を持たない多崎つくると、巡礼の年』はボブ・ディランの『血の轍』でないことは確かである。

    それで今後、上沼先生がもしまたニーチェの事を書く機会があれば、ニーチェの著書『アンチ・クリスト』を使ってチェ・ゲバラやナチスNo.2のゲッペルスの思想を検証した文章があります。
    キリスト教を悪くした張本人はパウロだというニーチェの言い分を最大限に使い「間違いだらけのキリスト教」とキリストは好きだが教会は嫌い!という人々を題材としてます。
    保守し保身するキリスト教徒は一度ニーチェにボコボコにされてくれば自身の信仰が偽善か、そうでないかがよくわかる内容です。
    今でも若い世代に影響を与えているボブ・デイランの『ブロンド・オン・ブロンド』が聴きたければ、今度お会いした時に差し上げます。

    1. わたくしページ管理をしています橋本と申しますが、上沼先生はこのページへのアクセスの仕方が苦手のようですので申し訳ありませんが、Email にて連絡をとっていただけると幸いです。KH

 伊東禮輔 への返信 コメントをキャンセル