「この時の責任を」2015年1月27日(火)

 義父は先週からホスピス体制に入りました。看護師の定期的な問 
診、それに伴う必要な薬の配達等、助けになっている面と、父自体 
が寝たきりに近くなってきていることで、それに伴う介護が全面的 
にふりかかってきています。若くない私たちのことも心配して、ロ 
スで仕事をしている姪が、仕事場からの許可をいただいてこの週応 
援に駆けつけてくれています。昼間はネットで仕事をしながら夜は 
助けの手になってくれています。

 姪は数年前に親から離れて両親のところに来ました。私たちもす 
でに父の看病のことで両親のところに滞在していたので、彼女の家 
族のことも含めていろいろなことを話してきました。少しずつ自立 
をして、自分で仕事を見つけ、この4月に導かれて結婚するこ 
とになりました。姪の成長をそばにいて観ることができました。今 
度は寝袋を持って私たちの応援に駆けつけてくれたのです。

 姪の婚約者とも親しくなってきています。私たち夫婦のこともよ 
く観察しています。不思議なことに例のレヴィナスの「他者」の話 
になりました。他者とは一番身近にいる人のことで、それは妻であ 
るとレヴィナスが言っていることの意味を説明するというか、その 
意味を話し合うことになりました。一番身近にいる人は同時に自分 
にとって一番の他者なのです。他者は容赦なしに自分の中に入って 
きて、意に反して私たちを変えていきます。自分のなかに他者を引 
き入れることはでません。他者のために自分は存在しているので 
す。そこに存在のための責任が生まれてきます。夫婦であることに 
その責任が端的に問われるのです。

 そんな話をしていても父のことがどこかで入ってきて長い話はで 
きないのですが、夕食後に話の続きが始まりました。母も寝室に引 
き下がっていました。義姉も一緒でした。というよりもその義姉に今度は 
N.T.ライトがいっている「みこころが天になるように、地にもなさ 
せたまえ」という主の祈りを祈っている私たちのこの地上での責任 
のことを話すことになりました。切っ掛けは、私たちのキリスト教 
があまりにも自分中心であるために、信仰自体も自分の救いと自分 
の祝福のためのものになっていて、そこからくる弊害で実際に問題 
を抱えているからです。

 自分のために世界は存在しているのではなく、世界のために自分 
は存在しているのです。そしてモーセの十戒のポイントはまさにそ 
こにあります。神を愛することと隣人を愛することに集約される十 
戒の具体的な例を義姉と姪に語ることになりました。やもめとみな 
しごと在留異国人が決して困ることのないようにという神の厳しい 
戒めです。結局私たちは自分のために存在しているのではなく、神 
の国の実現のために存在しているのです。それは夫婦においても同 
じことであると、姪との話の続きの一つの結論に達したのです。

 レヴィナスはタルムード学者・ユダヤ人哲学者であり、N.T. 
ライトは旧約からの流れを強調する新約学者です。そのふたりの方 
向性が神の民としての責任に関してぴったりと合ってきます。その 
方向性に私なりに関わっているのは、父の最後を手助けすることで 
す。みこころが天になるように地にもなされていくことの責任を果 
たしていくだけです。そして実際の場面で天と地が出会っている光 
景に出会うことになります。

 昨晩10時に最後の介護をして父も落ち着いてきたときに、 
姪が持ってきたオレンジ・シャーベットを、父と孫娘である姪が 
ベッドの脇でおいしそうに食べていました。天国の食卓の光景でし 
た。天が地に触れているのです。そのような場面に、この時の責任 
をできるところで果たしているときに接することになります。

上沼昌雄記
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