「アブラハムへの祝福は」2015年2月5日(木)

先日はどうしても家に帰って必要なものを持ってくる用事があっ

て、無茶なことでしたが、片道7時間半のドライブをして日帰
りで戻ってきました。家にも7時間半滞在して、それが終わっ
て夜中にまた7時間半ドライブをして両親のところに朝方着き
ました。

父のホスピス体制では、治療ということはないのですが、襲って
くる痛みに対しての対処が求められます。ルイーズが最善を尽くし
ています。すでにモルヒネの量も相当に上がっています。その上に
痛みに合わせて液状のモルヒネと安定剤を投与するタイミングが求
められます。そんな状況下で、24時間で家に帰って用事を済
ませて戻ってきました。

私たちの年齢からしたら当然無茶なことでしたので、子どもたち
は心配をし、同時に呆れ返ってもいました。ドライブ中眠り込むこ
とがないようにと携帯に何度も電話を入れてくれました。孫とまで
ドライブをしながら話が弾みました。

このことは、前回の「この時の責任を」できるところで果たして
いる中での窮余の策でした。それでも子どもたちは、彼らからみて
祖父になる父に私たちが最善を尽くしていることに、深い関心を
持っていてくれ、また多少の敬意を持って見ていることを直接的に
知ることになりました。子どもたちが私たちのしていることに関心
を持っていてくれること、それ自体が掛け替えのないサポートで
す。孫たちも曾祖父がこの地上の人生を終えることに彼らなりに思
いを向けて、絵を描いて送ってくれています。

教会の人たちも関心を持ってみているようです。現在のアメリカ
社会ではホームに預けてお終いというところがあるのですが、私た
ちは両親が最後まで自分たちの家で過ごせるようにと願って頑張っ
ています。そのことに秘かに関心を持ってみているようです。現実
的にホームに預けたら家を抵当に出さなければできないことです。
また実際的には、家もそれなりにスペースがあり、父の病人用ベッ
ドは居間にあって充分に介護もできます。それでも家で最後まで面
倒を見ることは大変なことです。覚悟がなければできません。

そうであっても私たちのことが問題ではなく、父が最後までどれ
だけ安心して快適にこの地上の生活を過ごせるかが問題です。少な
くとも2回ほど臨時で来てくれた女性のナースは父への世話が行き
届いていることを認めてくれました。私たちとしては父のことを最
優先に動いているのですが、しかし、そのことが少なくとも子ども
たちに、多分さらに間接的に周りの人たちへ何らかの意味をもって
いるのだろうと思います。

神のアブラハムへの祝福が、究極的にはアブラハムへの祝福では
なくて、アブラハムを超えて「地上のすべての民族」(創世記
12:3)への祝福になっていることに納得させられます。し
かもその祝福にはすでにエジプトでの400年にわたる苦役
(創世記15:13)が伴っていることが預言されています。
そうなんだろうなと、納得したくないのですが、唸らされています。

西洋社会の個人主義はキリスト教にも影響していて、結局は自分
の救い、魂の平安、そして自分の祝福だけを追い求めることに終始
しがちです。それは残念ですが家族の間でも見られます。しかしよ
く考えてみると、神のアブラハムへの祝福は、結局はアブラハムの
祝福ではなく、子孫への祝福であり、全人類への祝福なのです。そ
の恩恵を私たちは受けています。しかし残念ながら祝福は自分たち
止まりになっています。神の祝福を独り占めにしてしまうことにな
ります。それは祝福ではないのです。

このことは父の介護をしながら実感させられたことですが、実は
父の介護をしながら足かけ3年にわたって携わってきたN.T.
ライトのSimply Christianの翻訳作業を通して教えられたこ
とです。ライトは、アブラハムへの祝福に現されている神の救いの
計画の全体像をパノラマのように展開しています。翻訳をしながら
自分の状況との関わりを見つめることになりました。その訳業もよ
うやく終わろうとしています。

上沼昌雄記

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