「復活のからだへのこだわり」2015年4月14日(火)

 一昨日はワシントン日本人教会で続いての礼拝奉仕でした。イー 
スター礼拝にはルイーズは義樹家族と一緒に出席しましたが、今回は午後 
2時の礼拝に一緒の参加となりました。礼拝堂の前の満開の桜が私た 
ちを迎えてくれました。思いがけない花見となりました。

 第一コリント書15章の続きです。前半で復活がなければ宣 
教も信仰も実質のないもの、むなしいものであると言っています。 
それは私たちのためではなくて、神ご自身のミッションが完成する 
ためにどうしても必要なことだからです。すなわち、キリストの再 
臨と共に私たちもよみがえり、新天新地で神をほめたたえるためで 
す。その情景は黙示録に描かれています。

 その続きでパウロは、私たちの自然のからだである「血肉のから 
だ」と比較して、「復活のからだ」を「御霊のからだ」と呼んで、 
新天新地での私たちの姿を語っています。キリストの復活はその初 
穂なのです。ですから「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみ 
がえらされる」(42節)ことが、パウロにとっては当然なの 
です。一度血肉のからだで蒔かれたら、御霊のからだでよみがえら 
されることが、キリストのゆえに、キリストにあるものには必然な 
のです。

 「からだ」に最後までこだわっています。キリスト信じて救われ 
たらば天国に行く、それで終わりではないのです。その後の「から 
だ」があるのです。新天新地でいただくからだです。それがどのよ 
うなものなのかはイエスの復活のからだから推測する以外にありま 
せん。少なくともからだを持って神に栄光をたたえることになります。

 ギリシャ的な世界観では、血肉のからだを脱却して霊魂の世界に 
入ることが「救い」となります。「からだ」を持っていたら悪の世 
界から離れられないのです。肉の世界を脱却しなければなりませ 
ん。どのように霊の世界に入れるのか、まさに哲学者が悩み抜いて 
いるところです。

 私たちの救いの完成は「御霊のからだ」によみがえらされること 
です。そのからだを持って神の栄光をたたえるためです。それが務 
めのようにゆだねられています。からだをいただいている限り、そ 
の責任があるかのようです。しかしそこは「もはや死もなく、悲し 
み、叫び、苦しみのない」(黙示録21:4)世界です。

 復活のからだへのこだわりは私のうちにも増してきました。とい 
うのは、この希望をいただいているので、この世でどのように生き 
るのかということが問われてくるからです。それはまさに第一コリント書 
15章の後半のテーマです。次週の礼拝テーマです。

 礼拝後に牧師の上原隆先生をルイーズと共にお宅に訪ねまし 
た。 日本では難病に認定されている「慢性炎症性脱髄性多発 
神経炎CIDP」の2回目の治療が今週5日間予定さ 
れています。アメリカでは国の援助がないということです。また、 
昨年のキモセラピーよりも厳しいということです。しかし、先生の 
内なる人はしっかりと生かされています。何回か続くこの治療で先 
生が癒され、神の国のためにもう一度立ち上がれることを祈り、再 
会を信じて失礼をいたしました。

上沼昌雄記
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