「真の男性」2015年7月8日(水)

 日本に入って最初の集会が過ぎる土曜日の晩の男性集会でした。昨年の10月に続いて2回目となりました。年配と若手と半々で10名になりました。また半分は初めての方でした。夕食の時に牧師が新刊の『クリスチャンであるとは』を数冊テーブルの上に置いておきました。ひとりの未信者の方がそのタイトルを見て。それは「人間であるとは」ということですねと言われたことで、話がすぐに渦中に入っていきました。

 それでイントロを省いてエペソ書5章25,26,27節を開いてみんなで読みました。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のなにものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

 それで男性の責任は、しみや、しわや、そのようなもののない、ひとりの栄光の女性を、神の前に立たせることですね、と確認する場となりました。驚いたり、唸ったり、困惑したり、苦笑いしたり、複雑な反応が出てきました。それでも「そうなのか」と心底納得するようなため息が漏れてきました。

 それぞれ思うところを話してくれたのですが、ひとりの若い男性がテーブル越しに座っていた義父のことを話し出しました。自分たちが婚約をしたときはそのお父さんは奥様の看病に全力を尽くしていたのですが、その姿を見て真の男性を見せていただきましたと言われたのです。

 そのお父さんの話は前回の時にご本人から伺いました。奥様を看病して看取ることができたことを涙ながらに話してくれました。奥様の希望で北海道にまで車で連れて行かれた話もしてくれました。最後まで奥様を看取ることができたことを涙顔でうれしそうに話してくれました。

 義理の息子さんはそのような姿を見て男性のあるべき姿を見ることができましたと、お父様の前で、参加者に語ってくれました。お父様は8年経って最近ようやく元気になってきましたと言われました。その姿には男性としての責任を果たした満足感が漂っています。ひとりの女性を神の前の栄光の姿で立たせ、送ることのできた安堵感が滲み出ています。

 今はその息子さん夫婦の二人の子どもさん、すなわち、お孫さんの世話に追われているのですが、男性としての大きな掛け替えのない責任を果たした落ち着きがあります。 人間として、男性として、その核の中心が満たされているので、人生に対する揺るぐことのない安心感に溢れています。 人生の満たしを知っているのです。教会での奉仕にはそこから出てくる確かさがあります。

 男性集会が「クリスチャンであるとは」で始まって、「人間であるとは」と問い直され、その場で「真の男性」を見ることになりました。エペソ書のことばを実行した人がいるのです。取りも直さず、新刊『クリスチャンであるとは』は、最後の章でそれは真の人間であることだと、著者は憚らずに言っています。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp
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