「車中の会話―呪い」 2015年9月14日(月)

シカゴからドライブして家に戻ってくるのにどうしても三日かかります。孫の話、風景の感想と、とりとめのない会話を夫婦でかわしながらドライブをすることになります。今回はそれでも忘れられない話題を語り合うことになりました。シカゴにいるときにドイツから電話をかけてきた妻の友人のことでした。アメリカで長く生活し、離婚を経験し、自分探しを続けていたのですが、仕事を故郷のドイツで見つけて帰っていました。自分の霊力を引き出すことに関心を持っているのですが、カリフォルニアで妻と良く話していました。

ドイツの故郷に戻って何かに気づいて長距離電話をかけてきた内容を、妻がぼそっと語り出したのです。自分のなかに呪いがインプットされているが、それを断ち切るのにはどうしたらよいのかということでした。 まだ意識もない小さいときにどうも父親から性的ないたずらをされたのではないかと言うことを、 彼女にはお姉さんがいるのですが、語り合っているうちにそのような感覚を二人で確認したようです。お父さんはそれを隠すために二人の娘を互いに憎み合うように育て来たのではないかと言うのです。自分たちの内に父から呪いがインプットされていて、自分の霊力を邪魔していると理解しているようです。先祖の呪いから解放される必要に気づいたというのです。

そんな話を車中で妻から聞きながら、村上春樹の小説に同じようなことをテーマにしたものがあることにすぐに気づきました。『ねじまき鳥クロニクル』です。妻も関心があったようで、その内容を話すことになりました。主人公の奥さんがある日突然家から出て行ってしまうのです。その奥さんからその前に家を出て行って戻っていない猫を探すような意味合いの電話をいただいて、近所に探しに行くのです。近所の空き家の空き地にあった枯れた井戸に降りていく話です。その井戸の底で奥さんが出ていくことになった動機に気づくのです。

その奥さんが主人公に相談なしに堕胎をしたことで、どうも彼女が家族からの呪いが子どもに降りかかってくることを恐れたためではないかと気づくのです。そして、どこかで家族の呪いの中に閉じ込められていると確信して、そこから取り返していく戦いが始まるのです。取り返す、それは買い戻す、すなわち贖いのための戦いなのです。そのためには血が流されなければならないと、主人公は確信するのです。

どのような戦いがなされ、どのように血が流されるのか、それはまさにこの小説のクライマックスです。そして実際に血が流され、その奥さんをもう一度自分のところに買い戻していくのです。そんな物語に妻もそれは聖書の物語に通じると納得していました。そんな村上春樹の小説が世界中で読まれていることにも納得していました。

この小説にはノモンハンの戦いがかなり中心的な役割を果たすように出てきます。主人公の奥さんの家族がそのような戦いに深く関わってきたことで、家族に受け継がれた呪いが今にまで及んでいるからです。そんな会話の続きで、妻の友人のドイツでの戦争中のことが何らかのかたちで影響しているのかということにまで及びました。推測以外にないものでもないのですが、考えられることです。友人の家系の呪いが父親に及び、それが今友人の内に及んでいることも考えられるからです。妻は彼女と話す機会があったら聴いてみたいと漏らしていました。そして単純に福音書を読むように勧めると言っていました。キリストにこそ真の自由があるからです。

呪いが車中の会話で出てきたのですが、実はこの10月5日(月)の午後にお茶の水で第4回N.T.ライト・セミナーが予定されていて、私が「『クリスチャンであるとは』にみるN.T.ライトの歴史観」ということで前座を務めるのですが、その後に東京基督教大学の伊東明生先生がまさに「呪いと契約:ガラテヤ書3章10-14節」ということで講演をしてくれることになっています。パウロは自分の先祖から何か具体的な呪いを受けていることを意味しているのだろうかと、勝手に思い巡らしているところです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

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「読書感想文」2015年9月7日(月)

『村上さんのところ』を読み終わりました。N.T.ライトの学術書と千葉恵先生の論文への格闘の合間に少しずつ読んできました。 今年初めのサイトでの読者からの質問に村上春樹が答えている 3万7465通のやり取りから473通を選んで単行本にしたものです。 最後の方の376番目に、読書感想文の書き方についての質問に村上春樹が答えているものがあります。

このようなやり取りで本を出せるのもすごいことですし、全部の質問に目を通し、どの質問にも正面から回答していることもすごいことだなと思います。同様な思いは『海辺のカフカ』に対しても村上春樹が同じように読者とのやり取りをまとめた雑誌『少年カフカ』を読んだときにも持ちました。どの質問にも真剣に応えているだけでなく、読者に寄り添って語りかけています。

そのときも今回も、それはもしかしたら牧師や牧会カンセリングではできないことを村上春樹がしているのではないか、あるいはまた牧会の現場でこれだけのことができたらどうなるのだろうかと思いました。当然村上春樹は牧師ではないので同じようにはしていないし、する必要もないのですが、ただ読者に寄り添って真剣に生きることを自分の体験として語っていることが印象的でした。辛いこと、嫌なこと、苦しみを避けないでむしろ人生の糧として生きることを促しているのです。

牧師の場合には聖書からの解答集のようなものがあって、最終的にそれに沿ってまとめていくことが責務のように思っているところがあります。当然信者を慰め、励まし、信仰の前進を促していく責任があります。それでも問いを持っている人に寄り添っていくことよりは模範解答に導くことで終わってしまいがちです。そうすることで責務を全うしているように思ってしまうところがあります。

牧会はローカルな務めです。きれいに整った社会でそれについていけないで誰もが心を病みます。その人たちに寄り添っていかなければなりません。それは限のないことで牧師自身の身を削ることになります。 境界線がいつも犯されるからです。 疲労困憊します。 また牧師の頭の中にはきれいに整った神学があって解答集が揃っているのですが、何時かそれではやっていけないことに直面して牧師自身が心を病むこともあります。

ローマ法王フランシスコが9月22日からアメリカを訪問されるということで、先週ABCテレビが特集で、バチカンとアメリカをネットで結びつけて、法王とアメリカ市民が対話をする場面を報道していました。じっと耳を傾け、祈り心で返事をしている姿が印象的でした。二人の子持ちのシングルマザーにも続いて子どもをしっかりと育てていくように励ましていました。私が語りかけても耳を傾けてくれるのだろうと思いました。質問をしてみたくなりました。

村上春樹さんに質問をしてみたいかと言われると、必ずしもそうは思いません。むしろ彼の小説をじっくりと味わっていきたいところです。訳の分からない世界を取り扱っているように見えるのですが、真剣勝負をしていることが分かるからです。

読書感想文の質問に対して村上春樹は、「よくぞ訊いてくれました」と返事をしています。その説明を読んで、『村上さんのところ』を読み終わったら読書感想文を書いてみようと思いました。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp