「落合川・随想」2015年10月6日(火)

昨日は第4回N.T.ライト・セミナーで「『クリスチャンであるとは』にみるN.T.ライトの歴史観」と言うことで発題いたしました。40名ほどの方が集ってくれました。幅広い年齢層と女性の方も多く参加してくれました。信徒の方々も多くおられたのではないかと思います。

ライトの歴史観なのですが、聖書全体の流れをパノラマのように捉えることのできる視点を、本に書かれていることを紹介しながら話しました。神のわざの流れ、それを神の物語とも言うことができるのですが、その流れの全体を、聖書を通して見つめていくときに、私たちもその流れの中にキリストを通して組み込まれていることを、ライトとともに確認できるのだと、自分なりには言いたかったのです。実際には秘かに納得していることです。

その神の物語の全体像に触れることは、実はそれこそ神の永遠のもとに生きていることを実感することでもあります。キリストによって神の民に加えられることで、神に背いた民を神はなお用いてご自身のわざを実現しようとしていると知るのです。恐れ多いいことですが、そのように神の民の一員として生きることで、神の永遠を実感するのです。私の人生も神の永遠の目的の中での一こまであることを知るのです。あるいは神の物語のある場面のほんの一部に参加していると実感するのです。

それはライトが結構執拗に指摘しているように、この地を去って単に天に行くこと、あるいは、肉の世界を去って霊の世界を永遠の世界と見ることではないのです。プラトニズム化された2千年のキリスト教はその意味での永遠を考えてきました。それは結構きついことです。なぜならそんなことは人間には考えられないからです。抽象的な永遠は、憧れることはあっても、無理なことです。神学はそれが可能だと信じて何度も試みてきました。またそのように教えてきました。それは、階段を無理に上って天に押し入るような試みです。

それに対して、神の物語の全体像の中に組み込まれるのは、その流れの最終方向を見つめながら無理なしに今に生きることです。それは、その前から、自分にとっては自分の後ろから押し寄せてきて、私をも引き入れてくれて前に向かって進んでいく大きな入れ物の中にいるようなものです。神の永遠の計画に組み込まれているので、自分も神が定めている終末に向かって進んでいると実感することです。永遠を生きているのです。

ライト・セミナーを終えてそんなことを思いながら、投宿中の武蔵野の隠れ家のすぐ向こうに流れている川沿いを今朝散歩しました。その川は黒目川と記されていました。それを下っていくともう一つ向こうから流れてくる落合川と合流します。その合流点で向きを変えると続いて落合川沿いを歩くことができます。秋晴れの心地よい風が流れています。澄み切った川の水には鯉が流れに向かって気持ちよさそうに泳いでいました。川鳥がここを永遠の住処と思っているかのようにたむろし、戯れていました。コスモスが秋を彩ってくれていました。

この河辺を何度も散策しながら、神の永遠を思い、実感し、心にとめ、「落合川随想」として書き留めた聖徒がおります。どういうわけか私の「ウイークリー瞑想」に目をとめてくださり、メールでのやり取りが始まりました。ご自身の『落合川随想』を送ってくださいました。そして次に伺うときにお会いできるかなと思っていたのですが、その前に召されました。

この聖徒は落合川の河辺を散歩しながら、自分の人生を思い、召しを振り返り、奥様とご家族ことで涙をなさされたのだと思います。それでも神の一大パノラマのほんの一部にご自分が足を踏み入れていたのだと実感されたのだろうと思います。確かに神の最後の劇場の一こまを演じただけです。誰もそのようなことを覚えていないかも知れません。それでも神の永遠をご自分のものとされました。その重みを噛みしめながらゆっくりと歩まれていたのだろうと想像します。そんな情景を思い描きながら、私もその重みを少しでも味わうことが許されているのかなと自問しながら、落合川の反対側を歩き、黒目川に沿って帰ってきました。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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