「神はいったい何をすべきだろうか?」2015年12月15日(火) 

 邦訳『クリスチャンであるとは』で、N.T.ライトは大切な視点を端的な言い回しで表現しています。たとえば「天と地は、重なり合い、かみ合っている」と印象的な言い方をしています。「神はいったい何をすべきだろうか」も聖書全体を理解するための見事な問いかけになっています。次のような意味合いです。

 「力強く、無限で、自由な愛をもって神の創造した世界が、今や反乱を起こし、しかも神の救出計画を実現すべく選んだ人がそれを台無しにしてしまったのを見て、神はいったい何をすべきだろうか。」(108頁)創世記のはじめのことを踏まえて、神の嘆き、神のうめきを表現しています。

 それに対してライトは「さまざまな不明瞭さとパラドックスを生むことになるが、神はご自分で創造されたものの内側から働こうとする」といい、「また神は、契約を交わした民の内側から働こうとする」といい、それは「創造そのものを回復する」ためであり、「回復のわざを完成させ、本来の目的を成就するためである」と言います。そのために 聖書全体を一つのテーマが「行きつ戻りつ」していると 、これも端的な言い方でまとめています。

 この意味でクリスマスも、神が創造の内側から、神の民の内側から働かれた行きつ戻りつする物語として見ることができます。「奴隷状態と救出の物語」と「捕囚と回復の物語」です。確かにイエスの降誕にいたる時期は、バビロンの捕囚(exile)と帰還の後でした。しかし異国の王の下で捕囚の状態でありました。

 キリストの受肉はヨハネ福音書で端的に言い表されています。「ことばは人(肉)となって、私たちの中に住まわれた(幕を張られた)。私たちはこの方の栄光を見た。」(ヨハネ1:14)

 神は天幕と神殿で「天と地が重なり合うこと、そこでヤハウェは民を赦し、交わりを持ってくださること」(112,3頁)としてくださったことを、今継続さます。受肉はまさに天と地が重なり合う場だからです。「天幕に住まわれ、その後、神殿そのものに住まわれたヤハウェの栄光に満ちた臨在は、『天幕を張る(住む)』という言い方で言及された。すなわち、シェキナー(Shekinah)である。それは、天の神が神の民と共に、民のために臨在するあり方である。」(129頁)

 「肉となる」ことはまさに神が創造の内側から働かれたことです。創造そのものを回復するためです。それは肉を取ることで十字架と復活に繋がる一連のわざでなされる創造の回復です。イエスにとって「真の敵は結局、ローマ帝国ではなく、人間の傲慢さや暴力の背後にある悪の力」(157頁)でした。その悪の力がイエスの上に降りかかってきました。復活はその悪と死に対する勝利です。

 ヘブル書のことばが対応します。「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つものを滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人を解放してくださるためでした。」(2:14,15)「奴隷状態と救出の物語」です。

 さらにN.T.ライトが「パウロが書いたものの中で最も偉大な章の一つである『ローマ人への手紙』第八章」(180頁)のはじめのことばに対応します。「肉によって無力になったために、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(3節)

 それはこの章で言われている被造物のうめき、私たちのうめきを聞き届けてくださる御霊みずからからのうめきから出ていることです。N.T.ライトが言い当てています。「聖霊によって、神みずからが、世界の真ん中からうめいていることである」(230頁)と。このクリスマスの時に、「神はいったい何をすべきだろうか」という問いを持って神のうめきを聞き届けていきたいと願います。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp
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