「真理とは約束である。」2016年4月6日(水)

これは実は、レヴィナスの『存在の彼方へ』のなかの言葉(81頁)です。難解な書として有名なのですが、思いがけない表現が、思いがけないかたちで、しかも頻繁に出てきます。それで「これは何だ」と立ち止まって思い描いてみると、あのアブラハムへの契約のことを言っているように思えてきます。哲学書なので聖書のことも神のことも直接には出さないのですが、当然前提にしています。ユダヤ人哲学者でタルムードの学者の頭のなかに沈殿していることです。

今回不思議なかたちで会話の中でレヴィナスのことが出てきました。札幌で知り合いのご家族と夕食をいただいているときに、お嬢さんが、デリダのお弟子さんでレヴィナスのことで著書を書かれている方から学ばれたことから会話が弾みました。彼女のお父さんに「レヴィナスを通して自分のキリスト教を見直すことになりました」と言いましたら、驚かれた様子でした。それでキリスト教と旧約聖書とN.T.ライトのことまで語ることになりました。

そんなことで札幌駅の西口にある紀伊国屋で『存在の彼方へ』を再度購入して、何度目かになるのですが初めから読み出しました。以前よりレヴィナスの視点が見えてきました。同時に哲学書とは言えない表現に驚き、納得し、共鳴しています。「超越の外傷への仮借なき暴露」「存在に感染せざる神の声を聴くこと」(9頁)、「私の意に反して責任を喚起し、人質として<他者>の身代わりになる」(42頁)、「痕跡の輝き」(44頁)、「精神の息切れ」(49頁)、「可傷性、侮辱への、傷への暴露」(50頁)、「夜の静寂のなかで家具が軋むとき」(82頁)、「沈黙の響きを聴く眼」(83頁)と、語りえない世界、すなわち「存在の彼方へ」の途上から発せられています。

旭川での集会の担当をしてくださった方は、 札幌の友人の牧師の弟さんで、不思議な出会いとなりました。教員、教頭、校長をされてこられましたが、大学では哲学を専攻していました。私がハイデガーをしていたのでという説明でした。何とレヴィナスへの思いも持っていました。それ以上に旭川で伝えたかったことはアブラハムの祝福のことでした。すなわち、アブラハムの祝福は決してアブラハムのためではなく、地のすべての国民が祝福されるためでした。それは神の万物の創造の回復のためなのです。決して自分のためではないのです。

「存在の彼方へ」というのは、その「自分のため」という世界から脱出することなのです。「自分のため」をレヴィナスは「内存在性の我執」と呼んでいます。それで「存在の彼方へ」とは「内存在性からの超脱」となります。それはアブラハムの旅立ちのことです。自分のうちに留まっていたら恵も祝福も萎んでしまいます。自分から出て行くときに神の恵みと祝福が届いてきます。あたかも開いた門から神の恵みが入ってくるかのようです。神の霊が窓を通して入ってくるかのようです。「我執」はその扉を、窓を閉じて、自己満足だけでなくて、他者をもけ落としてしまう暴力になるのです。

「レヴィナスを通して自分のキリスト教を見直すことになりました」というのは、自己目的のためになっているキリスト教への反省です。自分の信仰と義の確立のために聖書を使い、神をもそのために使ってしまっている西洋のキリスト教への反省です。その問題点を見抜いたのがニーチェです。旭川の兄弟との会話の到達点にもなりました。続きを今月末に再訪の時にすることになっています。

それにしても「 真理とは約束である」とは、何とも勇敢な言葉です。メシア待望、キリスト来臨、新天新地を待ち望んでいる信仰者の心を代弁しています。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp
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