「わが家の獲得とわが家の防衛」2016年5月9日(月)

 これもレヴィナスの『存在の彼方へ』の言葉です。日本でこの本を再購入して読み進めて、帰路飛行機の中でも読み続け、家に帰って読み終わったところです。何度目かになりますがレヴィナスが言いたいことが少し見えてきたところです。タイトルが「存在の彼方へ」なのですが、最後の章がそれに呼応するように「外へ」となっています。存在の外への誘いです。存在の内に立てこもること、それが西洋思想の歩みだからです。

 「そもそもヨーロッパ史それ自体が、わが家の獲得とわが家の防衛に汲々とすることにすぎない。」(397頁) わが家に立ちこもって、他者を排除することを当然としてきたのです。その排除は暴力です。その暴力がホロコーストを生み出したのです。レヴィナスはその意味で、ホロコーストを哲学しているというのか、そこで受けた外傷(トラウマ)を哲学していることになります。

 「西欧思想は、魂が必ずや入港するはずの安全な港ないし避難所として、体系を探し求めてきたのだった。」(311頁) 確かに西欧思想は、このように考え、このように理想像を建て上がれば大丈夫という体系、システムを築いてきました。そのシステムに閉じこもれば大丈夫と言ってきました。教会も自分たちの教えを体系化し、そのためのマニュアルを提供し、その中に留まるように勧めてきました。

 N.T.ライトは義認論からだけで成り立っている救済論は、結局はme and my salvationしか考えないと言っています。自分の魂の救済と安泰のことしか考えないのです。「わが家の獲得とわが家の防衛に汲々とすることにすぎない」のです。それは聖書ではなくて西欧思想のメンタリティーなのです。

 レヴィナスはある人との対談で、クリスチャンに語りかけるときはいつもマタイ福音書25章を引用しますと興味深いことを言っています。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べ物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませて上げましたか。、、、」「あなたがたが、これらの私の兄弟たち、しかも最も小さいものたちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:37,40) 神のことばを他者の顔のうちに聴くというのです。

 出エジプトも、バビロン捕囚も、十字架も、自分の十字架を負うことも、「わが家の獲得とわが家の防衛」から、すなわちわが家から出ていくことです。多分有無を言わされずに出されていくことです。そのように他者がすでに私たちを呼びかけています。それは責任をもたらします。わが家に留まっているわけに行かないのです。なすべき責任があるのです。

 『確かさという偶像』という本を日本で訳出していると聞きました。なるほどと思わされます。「確かさ」を手に入れたと思ってもすぐにすり落ちてしまいます。それで神はどこにいるのかと自問し、信仰そのものを疑うことになります。信仰が「わが家の獲得とわが家の防衛」のためであればそうなります。しかし信仰が自分の「外へ」出ていくことであれば、違った世界が開かれてきます。神が導こうとしている王国があるからです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp
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