「黙示録から創世記へ」2016年6月13日(月)

N.T.ライトというイギリスの新約学者の著書を訳出(『クリスチャンであるとは』)したり、他の著書に当たったり、講演のビデオを観たりしているなかで、このライトという人が、聖書全体を説明するときにしばし、黙示録から始まって創世記に戻って説明していることに驚かされます。新鮮であるのと同時に、聖書全体の流れが鮮明に浮かび上がってくるからです。

黙示録に関しては、もしかしたら随分偏った理解をしてきたように思います。黙示録とは単に千年王国に関する解釈が中心のように思ってきたところがあるからです。そうではないのだろうと思っても、それ以外の手だてを持っていませんでした。確かによく読むと、千年王国は20章で部分的に語られているだけなのです。

ライトという人は対照的に、黙示録の21章と22章と創世記の1章と2章が対応していると観ています。すなわち、聖書の終わりの2章と最初の2章が呼応していると観ているのです。別の言い方では、聖書の終わりの描写は、その初めに定めたことの成就と観ることです。さらに言い方を変えると、新しいエルサレムはエデンの園の再現となります。

確かに新しいエルサレムの都の真ん中を流れる川は、エデンの園を流れる川を思い出させます。その川の両岸にはいのちの木が植えられるのですが、それはエデンの園の中央のいのちの木の再来なります。何よりも、罪のゆえに人はその園から追放されたのですが、神はもう一度人をその園に戻すことを考えているのです。すなわち、創造の神の意図は決して消えることなく、最後に確実に成就するのです。

『クリスチャンであるとは』を読んでいただいた方は、11章「礼拝」でN.T.ライトが黙示録4章と5章から礼拝の姿を描いていることを思い起こされるでしょう。そこでは造られたものすべてが神を讃えていきます。万物が神に帰るのです。人間だけではないのです。それはまさに全地万物の創造の目的が完成するときです。

このように目標が明確にされるときに、そこに至るまでの歩みが浮き彫りにされて来ます。すなわち、出発点からどのように離れ、どのような歩みをしていて、それに対して神の最初の意図はどのように実現されていくのか、その道筋が明らかになります。アブラハムの祝福も、出エジプトも、モーセの律法も、ダビデの王国も、バビロン捕囚も、そしてイエス・キリストの十字架と復活も、神の永遠の愛の現われとして浮び上がってきます。

さらにライトという人で驚かされるのは、創世記で神のかたちに造られた人の責任が、実は黙示録で再度明確にされていることを強調していることです。エデンの園でも新しいエルサレムでも人の務めは変わらずにあるのです。神の造られたすべてを支配することと、新しい天と新しい地で治めることです。その務めが出エジプトで「王なる祭司」と明確に規定され、黙示録で繰り返されているのです。

単に信じて救われたら天国に行くと言うことでは終わらないのです。天国に行くためにどうしたらよいのかということより、造られた目的ため、また万物の目標に向かって、少なくとも今生かされている務めを少しでも果たすことに思いが向いていきます。神が人を造られた目的とアブラハムと契約を結ばれた意味が今でも生きているからです。

黙示録から遡りながら、創世記の最初の意図に触れ、さらにその途上での人間の責任を取り上げてくるライトという人の聖書理解に、何とも唸りながら納得しています。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

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