「『他者』と『自国第一主義』と」2016年7月25日(月)

 ユダヤ人哲学者のレヴィナスが「他者」を視点に哲学をしていることは、度々書いてきました。モーセの律法の視点が、在留異国人、やもめ、孤児に向けられていることを傍証としています。確かに、これらの人々の嘆きと苦しみを民の中で聞いたらば、神は民を殺すとまで言っています。そうしたらあなたの妻はやもめとなり、あなたの子どもは孤児になる、それでも良いのかとまで言っています。

 同じ視点をN.T.ライトにも見ることができます。アブラハムへの祝福は決してアブラハムのためではなく、アブラハムを通してすべての民が祝福されるためなのだと、『クリスチャンであるとは』の6章「イスラエル」で強調しています。この同じ祝福がイエスの山上の説教で語られているというのです。「心の貧しい者は幸いです」というより「祝福された者、心の貧しい者たちよ」と訳されるべきだと言います。

 レヴィナスは、「自己の確立」「自分の安定」を視点に成り立っているのが西洋の哲学と見ています。「魂の救済のための知」、グノーシス主義をひとつの旗印に、西洋思想は、そのための安全な港を確保し、そこで堅固なシステムを築くことに汲々としてきたのです。それは西洋の神学の基盤にもなっていると見ています。

 N.T.ライトは、山上の説教の視点が私たちの「幸せ」に向けられていることに、アリストテレスに始まる「幸福のための倫理」によっていると見ています。その結果は、同じ「魂の救済」のための天国理解にすり替わっていると見ています。すなわち、「信じて救われたら天国に行く」ための聖書理解に終わっているというのです。信仰義認の教理はそのためだけになってしまい、結局は、me and my salvation しか考えられないのです。

 レヴィナスは、この西洋の自己中心性の行き着いたところがホロコーストと見ています。その背後には、尊敬していたハイデガーがナチスの党員になり、自分の家族全員がナチスに殺されたと言うことがあります。そして、レヴィナスにとって、ホロコーストは西洋の哲学の終焉であったように、ヨーロッパ人としてのN.T.ライトには、ホロコーストは西洋のキリスト教の死を意味していました。

 そのような中でレヴィナスは「他者」に視点を向けることで哲学の再構築と人間性の回復を目指し、N.T.ライトは「新天新地」を視点に神の国の優先性とそこでの人間の有責性を見ています。それぞれ読みながら、深く納得し、この世界の行く末も思いめぐらすことになっています。

 そうなので、今回の大統領選挙のひとりの候補者の受諾演説を聴いていて、多少身の毛のよだつ思いをしたことでした。「自国第一主義」とニュースではその内容が伝えられているのですが、まさに自分の国の安定と繁栄と祝福だけに思いが向けられていて、それを「自分」が、多分「自分だけ」が、成し遂げるという意味合いに聞こえます。

 選挙ですから、それはそれで良いのですが、問題は多くの人がそれに賛同していることです。すなわち、不満を上手に吸い上げて扇動していることに、多くの人が乗ってしまっていることです。多くの信仰者も含まれているのだと思います。第一次大戦後の不満を上手に吸い上げて扇動した人物のことが頭によぎります。そこに多くの信仰者が含まれていました。

 自分たちの信仰、自分たちの繁栄、自分たちの祝福だけを求めていたら、それは神の祝福の目的を損なうことになります。政治的な問題よりも霊的な危機を迎えることになります。すでにキリスト教自体が自己中心の世界に陥っていることからくると危機です。国が祝福されるのは、アブラハムの時にそうであったように、自国ためではなく、地のすべての民が祝福されるためなのです。それは教会だけでなく、個人としての生き方にも当てはまることです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「イザヤ書という世界」2016年7月19日(火)

 友人の大頭眞一牧師が雑誌『舟の右側』に「焚き火を囲んで聴く神の物語」という興味深い連載をしています。「神学ジャーナリスト」を自称されているだけあって、聖書の世界、神学の迷路についてよく知っていて、しかも教会と世界の現状を上手に混ぜ合わせて飽きさせないものがあります。聖書の人物、神学上の大御所、そして身近に接する人々が続々と登場してきます。この春に一緒にどこかで焚き火をしたのを6月号で書かれてしまいました。

 7月号でナラティブ・セラピーがテーマとして取り上げられ、その代表格として預言者イザヤが登場します。結局は、イザヤに促されて焚き火を囲みながらご自分のナラティブを語り出すのです。セラピストイザヤの登場なのですが、ただただイザヤの前でご自分の物語を語っていのです。読んでいて確かに預言者イザヤにはそんな雰囲気があるよなと、こちらも納得します。それは何だろうと自問することになりました。

 幸い今妻とイザヤ書を読んでいるので、その度に、このイザヤという人が展開している世界と、そこで醸し出している雰囲気は何なのだろうかと語り合っています。数年前に秋田の教会で、3ヶ月夫婦で奉仕したときには学び会でエレミヤ書を取り上げたのですが、エルサレムの崩壊とバビロン捕囚を迎える緊迫感が漂っていました。イザヤはどちらかというと一段高いところから大きな世界について語り、それが人の心深くに届いているところがあります。それがイザヤ書の特徴と言えます。

 だからといって預言書としての緊迫感がないというのではありません。ただその緊迫感が時代を超えて今の状況にもそのまま当てはまる深さがあります。イザヤが活躍した時代と世界の状況は鮮明に描かれています。イスラエルの民だけでなく、周辺の国への神の思いをしっかりと読み取ることができます。それでいながら、そんな歴史の流れを超えて、歴史を司っている神が計画している終わりの状況も明確に記しています。さばきと希望が明確に語られていて、それが今にも違和感なく当てはまるのです。

 イザヤの個人的な思いは、エレミヤほどには記されていないのですが、それでもイザヤははっきりとこれは自分の任ではないと述べています。それでも神の民に語らなければならないのです。同時にイザヤの語ることはイスラエルの民を超えて全人類の心の深さに向けられています。苦難のしもべは私たちすべての咎を負うことになり、彼の打ち傷によって文字通りに私たちはいやされたのです。

 イスラエルの民を超えるとは、それは時間的にはアブラハムを超えて、天地万物の創造の時にイザヤがいつも立ち返っていることからも分かります。エッサイの根株から出た新芽は、エッサイの家系だけでなく、その新芽から出た実が全世界を覆うことになります。単なる霊的な世界の救いを語っているのではなく、神の創造の世界の新生を語っています。乳飲み子がコブラの穴で戯れ、荒野と砂漠と荒地は、サフランの花を咲かせ、喜び楽しむのです。

 イザヤ書はどことなく旧約聖書における黙示録のような響きがあります。さばきの厳しさと希望の喜びが火を見るごとくに鮮明に描かれています。この世と世界と大地が滅びるのですが、神が備える新しい天と新しい地が約束されています。主を知ることが、海をおおう水のように、地に満ちるからです。その大きな神の御手の深みに生かされている実感をいただきます。

 この神の大きさに抱かれ、神の深さに触れると、自然とイザヤに促されるように自分の物語を語り出すのかも知れません。自分の物語が神の物語の一部として、たとえほんの取るに足りない一部であっても、神の計画に組み込まれている者として語ることができるのです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「異風土体験」2016年7月5日(火)

 東久留米のCAJの妻の同窓会でシカゴからさらに一日東にドライブをすることになりました。ペンシルベニア州のなだらかな山並みの中の森に囲まれた修養会場でした。そこで終戦間際の日本で宣教師の子弟として過ごした経験を聞くことになりました。何かねじれた「異文化体験」でした。

 シカゴに戻りしばらくして帰途につきました。ワイオミング州の手前まではいつものルートでしたが、そこからデンバーに降りて、ロッキー山脈を越えてユタ州に入り、ネバダ州の下にあるラスベガスを経由してロス郊外の両親の家にきて、母の面倒をみています。

 うっそうとした森の中でのねじれた異文化体験をして、今回はデンバーからロックー山脈越えをしたこともあって、このアメリカの風土への一種の違和感を覚えました。アメリカの風土と一言で表現しているのですが、大平原があり、広大な山脈があり、荒涼とした砂漠地帯があり、大西洋と太平洋があり、何とも多様なのですが、どれもその規模の大きさに圧倒されて、自分がその自然の一部のようにはとても思えないのです。

 広大な自然を眺めるのは、解放感をいただくこともあって、何とも気持ちのよいものです。それではその自然に包まれたり、抱かれたりするような感覚が出てくるかというと、どうもそのようにはならないのです。雄大な自然はそこにあり、自分はことらで自分のあり方を確保している感覚の方が合っています。安心して自分をその自然に委ねられるかというと、どうもこれは自分の肌に染み込んだものではないと、拒絶反応と言うより、一種のリアクションが出てきます。

 同窓会で中国系の方が「旅人」と書かれたTシャツを着ていました。その後ろには何と「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」とありました。あの山寺の岩と蝉の声と芭蕉が静かさの中で一体となっている情景が浮かんできました。自然に抱かれるように静かに蝉の声に聞き入っている芭蕉に文句なしに同化できるのです。俳句の説明をご本人は大変喜んでくれましたが、その感覚は伝えることは不可能でした。

 イザヤの預言に、「さあ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」(55:1)とあります。詩篇で「鹿が谷川を慕いあえぐように」(42:1)とあります。この渇く感覚は喉が渇くだけでなく、皮膚が渇いてきてからだが乾燥しきって、干上がってしまうところがあります。乾燥地帯で生活していて、わずかに聖書の記述に納得できるところです。

 昨年はこの時期に日本に入りました。暑さは大変でしたが、体の芯では慣れ親しんだ感覚がよみがえってきました。皮膚が汗で溢れるのですが、それ以上に体の芯で汗をかいていて、それが異体験にはならないのです。これが自分のものだと納得できるのです。

 聖書の終わりで新しいエルサレムの都の中央を流れる川の描写があります。「水晶のように光るいのちの川」で、その両岸に「いのちの木があって」「その木の葉は諸国の民をいやした」(黙示録22:1,2)とあります。新天新地ではどのような異風土体験をするのか楽しみでもあります。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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