「異風土体験」2016年7月5日(火)

 東久留米のCAJの妻の同窓会でシカゴからさらに一日東にドライブをすることになりました。ペンシルベニア州のなだらかな山並みの中の森に囲まれた修養会場でした。そこで終戦間際の日本で宣教師の子弟として過ごした経験を聞くことになりました。何かねじれた「異文化体験」でした。

 シカゴに戻りしばらくして帰途につきました。ワイオミング州の手前まではいつものルートでしたが、そこからデンバーに降りて、ロッキー山脈を越えてユタ州に入り、ネバダ州の下にあるラスベガスを経由してロス郊外の両親の家にきて、母の面倒をみています。

 うっそうとした森の中でのねじれた異文化体験をして、今回はデンバーからロックー山脈越えをしたこともあって、このアメリカの風土への一種の違和感を覚えました。アメリカの風土と一言で表現しているのですが、大平原があり、広大な山脈があり、荒涼とした砂漠地帯があり、大西洋と太平洋があり、何とも多様なのですが、どれもその規模の大きさに圧倒されて、自分がその自然の一部のようにはとても思えないのです。

 広大な自然を眺めるのは、解放感をいただくこともあって、何とも気持ちのよいものです。それではその自然に包まれたり、抱かれたりするような感覚が出てくるかというと、どうもそのようにはならないのです。雄大な自然はそこにあり、自分はことらで自分のあり方を確保している感覚の方が合っています。安心して自分をその自然に委ねられるかというと、どうもこれは自分の肌に染み込んだものではないと、拒絶反応と言うより、一種のリアクションが出てきます。

 同窓会で中国系の方が「旅人」と書かれたTシャツを着ていました。その後ろには何と「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」とありました。あの山寺の岩と蝉の声と芭蕉が静かさの中で一体となっている情景が浮かんできました。自然に抱かれるように静かに蝉の声に聞き入っている芭蕉に文句なしに同化できるのです。俳句の説明をご本人は大変喜んでくれましたが、その感覚は伝えることは不可能でした。

 イザヤの預言に、「さあ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」(55:1)とあります。詩篇で「鹿が谷川を慕いあえぐように」(42:1)とあります。この渇く感覚は喉が渇くだけでなく、皮膚が渇いてきてからだが乾燥しきって、干上がってしまうところがあります。乾燥地帯で生活していて、わずかに聖書の記述に納得できるところです。

 昨年はこの時期に日本に入りました。暑さは大変でしたが、体の芯では慣れ親しんだ感覚がよみがえってきました。皮膚が汗で溢れるのですが、それ以上に体の芯で汗をかいていて、それが異体験にはならないのです。これが自分のものだと納得できるのです。

 聖書の終わりで新しいエルサレムの都の中央を流れる川の描写があります。「水晶のように光るいのちの川」で、その両岸に「いのちの木があって」「その木の葉は諸国の民をいやした」(黙示録22:1,2)とあります。新天新地ではどのような異風土体験をするのか楽しみでもあります。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp
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