「イザヤ書という世界」2016年7月19日(火)

 友人の大頭眞一牧師が雑誌『舟の右側』に「焚き火を囲んで聴く神の物語」という興味深い連載をしています。「神学ジャーナリスト」を自称されているだけあって、聖書の世界、神学の迷路についてよく知っていて、しかも教会と世界の現状を上手に混ぜ合わせて飽きさせないものがあります。聖書の人物、神学上の大御所、そして身近に接する人々が続々と登場してきます。この春に一緒にどこかで焚き火をしたのを6月号で書かれてしまいました。

 7月号でナラティブ・セラピーがテーマとして取り上げられ、その代表格として預言者イザヤが登場します。結局は、イザヤに促されて焚き火を囲みながらご自分のナラティブを語り出すのです。セラピストイザヤの登場なのですが、ただただイザヤの前でご自分の物語を語っていのです。読んでいて確かに預言者イザヤにはそんな雰囲気があるよなと、こちらも納得します。それは何だろうと自問することになりました。

 幸い今妻とイザヤ書を読んでいるので、その度に、このイザヤという人が展開している世界と、そこで醸し出している雰囲気は何なのだろうかと語り合っています。数年前に秋田の教会で、3ヶ月夫婦で奉仕したときには学び会でエレミヤ書を取り上げたのですが、エルサレムの崩壊とバビロン捕囚を迎える緊迫感が漂っていました。イザヤはどちらかというと一段高いところから大きな世界について語り、それが人の心深くに届いているところがあります。それがイザヤ書の特徴と言えます。

 だからといって預言書としての緊迫感がないというのではありません。ただその緊迫感が時代を超えて今の状況にもそのまま当てはまる深さがあります。イザヤが活躍した時代と世界の状況は鮮明に描かれています。イスラエルの民だけでなく、周辺の国への神の思いをしっかりと読み取ることができます。それでいながら、そんな歴史の流れを超えて、歴史を司っている神が計画している終わりの状況も明確に記しています。さばきと希望が明確に語られていて、それが今にも違和感なく当てはまるのです。

 イザヤの個人的な思いは、エレミヤほどには記されていないのですが、それでもイザヤははっきりとこれは自分の任ではないと述べています。それでも神の民に語らなければならないのです。同時にイザヤの語ることはイスラエルの民を超えて全人類の心の深さに向けられています。苦難のしもべは私たちすべての咎を負うことになり、彼の打ち傷によって文字通りに私たちはいやされたのです。

 イスラエルの民を超えるとは、それは時間的にはアブラハムを超えて、天地万物の創造の時にイザヤがいつも立ち返っていることからも分かります。エッサイの根株から出た新芽は、エッサイの家系だけでなく、その新芽から出た実が全世界を覆うことになります。単なる霊的な世界の救いを語っているのではなく、神の創造の世界の新生を語っています。乳飲み子がコブラの穴で戯れ、荒野と砂漠と荒地は、サフランの花を咲かせ、喜び楽しむのです。

 イザヤ書はどことなく旧約聖書における黙示録のような響きがあります。さばきの厳しさと希望の喜びが火を見るごとくに鮮明に描かれています。この世と世界と大地が滅びるのですが、神が備える新しい天と新しい地が約束されています。主を知ることが、海をおおう水のように、地に満ちるからです。その大きな神の御手の深みに生かされている実感をいただきます。

 この神の大きさに抱かれ、神の深さに触れると、自然とイザヤに促されるように自分の物語を語り出すのかも知れません。自分の物語が神の物語の一部として、たとえほんの取るに足りない一部であっても、神の計画に組み込まれている者として語ることができるのです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp
広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中