「イチロー」2007年9月10日(月)

 イチローのメジャーリーグでの活躍には眼を見張るものがある。アメリカという国で生活し、格闘し、もがいている者としてイチローは魅力的な存在である。家のテレビは3つのチャンネルしか観ることができず、野球中継といっても地元のチームの放映が中心なので、イチローの試合を観ることはほとんどない。幸いオールスター戦で、外野のフェンスに直撃したボールが逸れた間に本塁まで駆け抜けた状景と、その後MVPの受賞のインタビューは聞くことができた。それで、インターメット上で紹介されるイチローの活躍と彼の語録のようなものをそれなりに気にしながら読んでいる。

 イチローが達成した記録には、2004年の年間最多安打のように、聞いたこともないような全く過去の選手との比較が出てくる。つい最近は7年連続200本安打の記録を達成している。今朝のインターネットでも昨日の試合で、年間「200本安打、100得点、30盗塁」を同じように7年連続で達成しているが、イチローだけだと言う。そのたびに随分古い記録との比較が出ている。

 イチローは攻守、走塁、どの面でも長けている。そのための大変な努力をいているのだと思う。メジャーリーグは年間162試合である。一試合一本のヒットでは年間200本にはならない。途中で怪我をしたら終わりである。ヒットのない試合もある。しかも最大3時間の時差のあるアメリカ大陸を横断しながら、その上引き分け試合がないという、長丁場を耐えなければならない。体力のあるアメリカ人選手でも疲労困憊する。

 どこかのインタビューの記事で、試合中でも力を抜いているようなことを言っている。いつも力を入れていたら疲れてしまう。力を抜いて風の流れれに身を任せて、浮いていることで体力の消耗を避けている。同時に力を入れるときには最大限出せるようにしている。確かにバッターボックスでもすんなりと立っていて、特別構えているようでもない。ほとんどのバッターが身構えているのでよく分かる。またイチローはどう見ても走りながら打っているように見える。打った瞬間に右バッターより3,4歩ほど先にいる感じである。

 ディゲームでセンターに上がったフライを、捕球の姿勢を見せていながら、ボールはその向こうに落ちた状景を覚えている。インターネットの記事で、フライが太陽の中に入ってしまって見えなくなったのを、あたかもとれるような姿勢を取って2塁か3塁の走者を釘付けにするためだったと言っている。最近2塁に盗塁して、これは間に合わないと分かって、ベースの前で立ち上がって、2塁手ヤンキースのジーターのタッチを避けたが、審判がそれを見ていなくてアウトにされた記事を、想像しながら読んだ。

 誰もがよい成績を残そうと大変な努力をしている。しかも力があり、体力がある。アメリカ人とペンキ塗りの仕事をしたことがあるのでよく分かる。野球という一大ゲームの可能性を誰もが最大限に延ばそうとしている。バリー・ボンズはホームラン記録を塗り替えた。日本人選手も頑張っている。メジャーリーグは今までになくエキサイトしている。

 イチローは、そんな可能性が最大限に追求されているなかで、それを乗り越えるだけの能力を備えているのと同時に、考えられる可能性だけでは見えない、何か野球というゲームのなかでそれでもなお見落とされている面を、瞬間的にか直感的にか感じ取って、その隙までプレーをしているようなところがある。そのように思えて仕方がない。ただ頑張って頑張って乗り越えようとしているのであれば、息切れしてしまう。息を抜きながら、もうこれ以上可能性がないと思われるメジャーの試合のなかで、どこかに見落とされている面を見抜いている。今までに見たこともないようなプレーに観客が興奮している。

 イチローは曲芸師でも、忍者でもはない。野球の本道を身に着け、その中心を歩んでいる。その可能性を最大限に探っている。同時に野球の大筋から外れたというか、見落とされているというか、隠れているというか、考えられないというか、ともかく窮め尽くしてもなお見えない可能性を、多分直感的に感じ取っている。それに瞬間的に、本能的に体がついている。その結果、メジャーリーグに大きなズレを引き起こしている。今までにない揺れを起こしている。新鮮なエキサイトを引き起こしている。

 神学はメジャーリーグよりもはるかに古い2千年の歴史がある。学問として神学に関わった人の数は抜きんでている。提示された神学も数え切れない。学としての神学の可能性を今でも追求している。体系として整っている。何も新たに付け加えることのないほどである。聖書としてのテキストがあり、神学としての枠組みがあり、体系がある。誰もが2千年の神学の歴史の重みのなかで生きている。福音派は福音主義という神学の枠を持っている。その枠は抜き差しならないほどしっかりとしている。

 神学に歴史があり、枠組みがしっかりしていればいるほど、それ以上の隙間やズレはもはやなさそうである。しかしそれは同時に、生きた神を、また御霊の流れを固定化して、停滞を招いている。身動きがとれず、息苦しくなっている。魅力もなくなってきている。という神学の現状がありながら、聖書には生き生きとした息吹があり、引き込まれる流れがあり、眼を見張る魅力さがある。それに生かされている。同時に、神学によって閉じこめられている。  

 限られたなかで神学をしてきて、しっかりと築き上げられている神学に、どこかにズレがあり、隙間があり、見落としているものがあり、隠れているものがあるのではないかと思わされている。そこに触れることができ、捉えることができたら、神学の全体がずれてきて、見落とされたものが見えてくるのかも知れない。それ以上ないと思われる神学のズレや隙間を捉えることができたら、今まで見えなかった聖書の世界に入ることができるのかも知れない。そんな感覚をいただいている。

上沼昌雄記

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神学モノローグ
「イチローと村上春樹」2010年9月24日(金)

 しばらく前は、今年のイチローは200本安打が大丈夫かというような記事をネットで読んでいた。確かに一時大夫停滞していたのを覚えている。イチローも衰えが出てきたのだろうかとも思った。しかし9月に入っていつものような量産が始まってあれよという間に、昨日見事に10年連続200本安打を達成した。昨日は家にいてハイスピードのネットがないので観られなかったが、いま事務所に来て大リーグのウエブでビデオを観ることができた。昨年は9月の初めに、9年連続の新記録をテキサスの球場で、しかも夜更けに達成したのを覚えている。今回は快晴のもとトロントでのことであった。それにまつわる記事とインタビューも読むことができた。

 すでに69歳になっているピート・ローズと比較されている。40年近く前にシカゴ郊外で学びを始めたときに、妻の友人たちからピート・ローズのことを聞いていた。そののち監督時代に野球賭博に関わって球界を追われる身になったのだと思う。それでも彼の記録は超えがたいものと残っている。それを「超えてあげたい」とまでイチローは言う。そんなことを言えるイチローの、強さではなく、柔軟性に思いを馳せている。強さでは勝てないし、強さだけではここまで来ることはできなかった。強さをすり抜けるというか、力と力の間の隙間をすり抜けるような柔らかさが彼にはある。

 三塁手が突っ立っていると思ったらその前にバンドをして、悠々一塁に走り抜ける。どんな強肩な捕手でも年で衰えてきたと思ったら、遠慮なしに二塁でも三塁でも滑り込んでしまう。ヘンス際のボールであればよじ登ってホームランを阻止してしまう。レーザービームと呼ばれた外野から三塁手へのボールはランナーの手前しっかりと届いてしまう。いままでにない、そして忘れられない場面の数々を提供してくれている。

 村上春樹の『1Q84』のブック3を、イチローの今回の快挙の前に、何度目になるのか明確ではないが読み出した。そして、昨晩読み終えることができた。1Q84という時代というか世界の設定、そこでのふたつの月、マザとドウタ、レシヴェとパシヴァ、20年にわたるロマンス、学園闘争と新興宗教、そんなおかしな設定がなされていながら、自分のなかのどこかで置き忘れてきた古い荷物をもう一度開けられるような感覚を覚える。読む度にその感覚が深くなる。月がふたつだとか、1Q84のおかしな世界が、架空のものでなく、自分のなかのどこかで置き忘れてきて、思い起こさせられるものとなるのである。

 神学書を読み、コメンタリーを読み、哲学書を読み、また自分なりに小説を読んでいるが、多くの場合に正面から語られている感じがある。これが問題でだからこうしたらよいというテキスト的というか、回答提供型のものが多い。当然それなりに意味があるが、物足りなさが残る。自分のなかの触れられていない面がいつまでも、水の下に留まっている濁りかすのように心の隅に残っている。

 村上春樹が書くものはその正面の課題をすり抜けているところがある。何を村上春樹は言いたいのかと問われると、そんな問いを上手にすり抜けて、いつの間にか背後に回っていて、問いをかけた人も気づかない意識の背後を揺さ振るのである。『1Q84』のブックレビューに、こんなのは小説でないという酷評がある。そうも取れるのだろうと素人ながら思う。それありながら、日本語の限界をあっさりすり抜けて、世界中で読まれてしまう。

 イチローの今回の200本安打が二遊間をきれいに抜けていくのを何度も観ながら、村上春樹の文章が私のなかの二遊間の守りをきれいに抜けて、自分でもまだ分からない意識の背後にボールが転がっていているような感じがしている。そんなことができるふたりのしなやかさに恐れ入っている。そのためにこのふたりが怠りなく自分の可能性の限界を伸ばそうとしている努力には驚異すら感じる。

 同じバッターフォームでは10年も毎年200本安打は打てないことをイチローは知り尽くしている。『ノールウエイの森』でも『世界の終わりとハードボイルで・ワンダーランド』にしても、それと同じスタイルでは、自分がいずれ死んでしまうことを村上春樹は知っている。このふたりのしなやかさは、信仰の新しさをいただいているものが当然身に着けていないといけないのだが、どうも自分のなかで逆になっている。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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