「村上春樹はむずかしい、と言う」2016年8月18日(木)

 昨年の暮れに岩波新書で評論家・加藤典洋著『村上春樹は、むずかしい』がでて、この春に日本で手にして、旅をしながら読みました。そしてこの夏にもう一度じっくりと読みました。何とも評論家はこのような分析をしながら読むのかと思わされました。多分多くの読者は、そのような分析なしに、自分のなかで納得するものがあって村上春樹を読んでいるのだと思います。それが国境を越えて太陽の西まで届いているのです。

 何故に「むずかしい」と言われるのかはさておいて、分析の骨子は、村上春樹の個としての内面と、対社会である外面との関わりを時代とともに対比して、初期、前期、中期、後期と時代区分をしていることです。興味深いことに、その後期(1999年から2010年)を語る第三部を「闇の奥へ」と位置付けています。

 その後期は、個としての内面を取り扱う「小さな主題」と対社会を視野に入れる「大きな主題」との拮抗が『!Q84』を代表して明確になりながら、その後『色彩を持たない多崎つくると、巡礼の年』と『女のいない男たち』で、「小さな主題」に戻っていると見ています。もう一度「大きな主題」との関わりが出てくるものを期待して、終わっています。しかしそれは、この後期と今に至るまでの村上春樹のなかに、「小さな主題」を取り上げながら、それは「闇の奥へ」沈潜していく作業と見ていて、「小さな主題」を掘り下げることでそこで避けることなく出合う「大きな主題」を想定しているからです。

 拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』で、この村上春樹の視点を紹介したのですが、同時に同じような視点で存在を観ている哲学者としてレヴィナスを挙げました。そのレヴィナスを精神分析学の視点から説き明かしている興味深い著書に出会いました。村上靖彦著『レヴィナスー壊れものとしての人間』です。レヴィナスの哲学を「外傷の哲学」と呼ぶのです。すなわち、存在そのものはすでに避けられないかたちで外傷・トラウマを負っていると見るのです。存在は純粋無垢で、知識を積み重ねれば自我の確立に至るものとは観ていないのです。その伝統的な存在理解は崩れ去ったのです。ホロコーストを経験したものには存在の悪性と外傷性は避けられないのです。

 それはホロコーストを経験したものでなくとも、誰もがすでにトラウマを負っていることを「色彩を持たない多崎つくる」を通して村上春樹は描いています。「色彩を持たない」と言うことで普通の人だと言っているかのようです。それでも、そのトラウマは本人を自殺願望にまで追いやります。そこから回復して巡礼の旅に出る、すなわち、回復の旅が描かれています。と書くと簡単なのですが、自殺願望の状況やそこから回復していく描写はまさに世界的な小説家の手によるものです。

 『1Q84』の後の小説としては物足りないというコメントもあったように思いますが、20歳の時に受けた外傷を36歳になってそれなりに回復の旅に出る、それは簡単なことではありません。レヴィナスのいう有責性にも通じるものです。壊れものとしての人間が、自分の「外へ」と出ていくことで逆にいやされていくのです。レヴィナスの『存在の彼方へ』の最終章「外へ」の招きなのです。

 外傷を負っていながら、その回復のために出ていくこと、それはむずかいいことです。どうしても内にとどまってしまいます。それをはね除けて「外へ」出ていくこと、それはとてつもなく困難なことです。存在そのものの難しさと言えます。そうなると、村上春樹がむずかしいのか、存在そのものがむずかしいのか、何とも言えなくなります。

上沼昌雄記



Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp
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