「『わが家』をはなれて」2016年12月7日(水)

昨日2ヶ月以上にわたる旅を終えて家に戻ってきました。「我が家に」という挨拶文を送りました。家もようやく温まり、しばらくぶりで自分のベッドに寝ることが出来ました。次の旅の準備をする必要がありません。しばらくはすべてをそのままにしても支障がありません。それだけでなく慣れ親しんだ家のまわりの風景と、ごちゃごちゃした自分の机にただホッとします。家に帰ってきた実感が湧いてきます。

今回義弟の結婚式のためにシカゴからサンディエゴにドライブをしたときに、ニューメキシコ州とアリゾナ州を横切りました。ロッキー山脈の南側を横切ることになったのですが、山脈のまわりは砂漠地帯ともいえる荒涼とした地域です。この地に、「マラーノ」と呼ばれた隠れユダヤ人が、1492年のスペインでのカトリックによる異端審問に追われて、ラテン・アメリカに移り住み、さらに追われてアメリカのこの地に移り住んだ歴史を思い出しました。ドライブをしながら妻に説明をしたことでした。

「我が家に」とホッと出来るのですが、その「わが家」を持たないユダヤ人のことを思い、もしそれが神の選んだ神の民の生き方であるとすると、全く異なった世界観と生き方がそこに展開することになるのだろうと、ゆっくりと目をさましながら思い巡らしました。今朝も荷物をたたんで出かける用意をしなければならないのです。もし次の旅先が分かっていなかったら、準備どころでなくなります。今回は私たちの動きに合わせて次女の泉が次の宿を確保してくれたので安心してドライブが出来ました。

ホロコーストの生き残りでユダヤ人哲学者であるレヴィナスが、この「わが家」を出て約束の地に向かって旅をする神の民の生き方を哲学のテーマとしています。ギリシャ神話のオデュッセウスの旅は「我が家に」に戻り、自分の住処を確保し堅固にすることが目的であったのに対して、アブラハムに始まる旅はいつも外部にさらけ出され、隠れることの出来ないものなのです。西洋のキリスト教を含めての思想は、自分たちの安全な港を見つけそれを強固にすることに汲々としています。残念ながら教会も自分たちの義を建て守るために汲々としています。

しばらくぶりにレヴィナスの主著『全体性と無限』上(岩波文庫)の本文の最初の段落(38頁)を紐解きました。「『わが家』をはなれて」約束に地を目指して出ていくことが「形而上学的渇望」と言い切ります。「我が家に」とどまることは、自分の義を確立することになり、他者を排除することになり、結局は逆説的なのですが、「ほんとうの生活が欠けている」ことになると言うのです。確かに人生の真の満足は自分のなかにとどまっていたら得ることが出来ません。逆に不満だけが出てきます。

それは新約聖書でイエスが言い、行ったことであり、私たちにも勧められていることです。N.T.ライトもアブラハムへの祝福はアブラハムのためではなく、子孫とすべての民のためであるとして強調していることです。西洋のキリスト教が信仰義認にしてもあまりにも自己中心になっている事への反省と警告なのです。「自国第一主義」が当然のような風潮になっていますが、それはある政治家だけのことではなく、西洋のキリスト教の体質になっています。

この歳になって旅を続けるのは必ずしも楽なことではありません。それでも旅人としての歩みはやめることが出来ません。なぜなら神の祝福を自分のところに留めておくことはできないからです。自分を通して少しでも神の祝福が他の人に届いていくことが旅人の歩みだからです。旅を終えてそんな神の民の旅人としての歩みを考えています。その旅人の生き方を哲学している存在に何もと励まされています。

上沼昌雄記

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