「イエス・キリストの信による」2016年12月12日(月)

今回札幌滞在の折り、北大の哲学科の研究室に千葉恵先生をお訪ねしました。札幌に行くたびにお邪魔だと思うのですがお伺いしています。今回は出版のために今までの研究をまとめられた原稿が出来上がっていて見せてくださいました。今まで大学の紀要などで書かれてきたものの総集編です。その紀要の抜粋をいくつかいただいて読んできました。しかしまとめたものは本になると1500頁なるという大著です。

タイトルは『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か』なのですが、中心的にはローマ書3章21節から30節までの解釈のことで、特に22節の「イエス・キリストの信による」の捉え方によっているといえそうです。千葉恵先生は無教会の熱心な指導者なのですが、哲学者としてアリストテレス研究からローマ書研究へと展開しています。

実は2年前に北大のクラーク聖書研究会の50周年記念講演で、当時N.T.ライトの翻訳をしていたこともあって、そのローマ書3章22節の従来「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と対格として訳されているところを、「イエス・キリストの信仰」と主格に取ることがこの30年来欧米の聖書学者の間で受け入れられていると紹介しました。顧問をしてくださっている千葉先生が私のところに来てくださって、それこそご自分の研究テーマだと言ってくださったことがことの始まりでした。

千葉先生は、その属格の「の」は対格でも主格でもなく「帰属の属格」であって、キリストに本来属しているものであり、しかも「イエス・キリスト」という称号は行為主体には用いられていないと、熱く語ってくださいました。それ以外のことも語ってくださったのですが、うまく飲み込めなかったので、それ以来日本に行き札幌に行くたびに研究室に先生を訪ね、紀要の抜粋をいただき、先生の研究のおこぼれをいただいてきました。

先生が「帰属の属格」を取られているもう一つのポイントは、その「イエス・キリストの信・真実」と「神の義」には分離がないことだと言います。従来信じる者の間に「何の差別もありません」という箇所は、神の義とイエス・キリストの信・真実には「分離はありません」と取るべきで、23節以下はその説明をしていると説きます。革新的な理解です。

この二つの箇所の誤訳と誤解のゆえにそれ以来の2千年のキリスト教会は、ペラギウス論争、カトリックとプロテスタントと混乱を来し、争いをしてきたと言います。確かに従来の「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」であると、神の義は私たちの信仰によるかのようになるし、実際に聖書理解にしても、牧会にしても神の義をいただくためにこちらの信仰心を整えることに汲々としてきました。結局は人間中心の信仰なのです。多分信仰義認の問題点はこの点にあるのでしょう。N.T.ライトが信仰義認だけであれば結局はme and my salvationになってしまうということに当てはまります。

神の義は神の側のことで、そこにイエス・キリストの信・真実が含まれていて、そのことを信じる者が義とされるのです。キリストの信と私たちの信仰とは異なった次元なのです。「信の二相」と千葉先生は呼んでいます。その信を「人間であることの全体の分析として普遍的次元において提示しうるか」に「信の哲学」がかかっているようです。

「信の哲学」のケース・スタディーのように千葉先生はアンセルムスのCur Deus Homoを取り上げます。そしてさらに何とも興味深いのですが、あのハイデガーの『存在と時間』をパウロのローマ書のルター主義的理解として説き明かしていることです。非本来性と本来性という実存理解がルターのパウロ理解からきているというのです。北大でハイデガーを囓っていた時のことを思い出します。

さらに私たちに突きつけられているのは、来年には出て来るといわれている新改訳と新共同訳の新しい訳で「イエス・キリストの信」がどのように訳されているかです。従来のままの対格であれば、結局は私たちの信仰心のことに焦点が向いてしまい、また信仰心の確立のための聖書理解に終わってしまいます。それは堂々巡りの出口のない信仰なのです。

信仰をいただいて北大には行って哲学を専攻し、今度はその北大で千葉恵先生を通して信仰と哲学のテーマを再確認する機会をいただいています。何という導きなのでしょう。先生は本の原稿のコピーを持って帰るように勧めてくれました。2冊になっていていただいて良いのか躊躇したのですが、本になるまでは待てないのでいただいてきました。千葉先生の40年の苦闘とその成果を申し訳ないことに味わっています。また齧り付いています。

上沼昌雄記

追記:今回の記事に関して千葉恵先生より発信の許可をいただきました。その折りに次のコメントをいただきました。「簡にして要を得たご文章に先生が長くこの問題を考えてこられたことに思いをはせました。」同時にその意味合いを先生の原稿を読みながら考えています。神学の視点が先生の「信の哲学」と深く関わっているように思えるからです。なお関心のある方は以下のところで先生の論文のいくつかを読むことができます。上沼http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~k15696/home/chiba/neuCHIBApub.htm

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

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