「映画『沈黙―サイレンスー』を観て」2017年1月30日(月)

この映画のことは最上川沿いの農民作家の友人から間接的に聞きました。近くの牧師が碁点温泉というところで出合ったときに、この農民作家が映画のことを一生懸命に話していたと伝えてくれました。また日本で封切られてすぐに二人の友人からコメントが届きました。それで過ぎる火曜日に映画を観てきました。夜8時35分開演で、その一回だけの上演で、家に戻って来たのが真夜中した。そして小説『沈黙』も読みました。以下のような思いを持ています。

1)実はこの農民作家に促されて、ウイークリー瞑想「二つの1639年」(2012年9月5日)を書きました。日本で隠れキリシタンが迫害されているときに、アルゼンチンではそのカトリックが隠れユダヤ人(マラーノ)を見つけ出して火炙りにすることが起こっていました。 キリシタン宣教師の残した十字架が 最上川の上流の「称名寺」というお寺に飾られていて、この農民作家の案内で見てきました。その宣教師の消息が途絶えたのが1639年です。『沈黙』のストリーはその前後から始まっています。カトリックが一方で隠れユダヤ人(マラーノ)を迫害し、その一方で日本で迫害されていたというのをどのように捉えたら良いのか戸惑っています。マーティン・スコセッシ監督に隠れユダヤ人(マラーノ)の映画も作ってもらいたいものです。

2)井上筑後守が巧みにロドリゴの心に入っていく手だては、肉体の迫害とは違って、まさにどのような意志をも根無し草にしてしまうものです。それはローマ時代の迫害とも異なっています。陸続きであればディアスポラとして生き延び、宣教も広がっていきました。巧みに信仰を根絶やしにしていく、そのようなやり方を考え出したたことは驚きです。それはまさに海に囲まれた美しい日本の逆の現れと言えそうです。映画はこの辺の心の動きをしっかり描いています。

3)デウスの神のことでロドリゴが通辞とフェレイラと議論するのですが、西洋の神、特にカトリックの神には背教は考えられないのでしょうが、旧約ではイスラエルがどのようであって迎え入れる慈愛の神が描かれています。「背信の女イスラエル。帰れ。ー主の御告げーわたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。」(エレミヤ3:12)西洋世界で築かれた神観念の再考が求められています。この辺は、N.T.ライトが言っているように、旧約との関わりで神を捉え直していく必要があります。それはまたレヴィナスにも通じます。

4)表面的であっても日本でキリシタンとその痕跡が完全に抹殺されたというのは驚きです。それを可能にした社会習慣が築き上げられました。そして私たちはすでに井上筑後守の手中にはまり込んで、抜け出せない状態です。ですので、迫害が起こったら耐えられるクリスチャンは少ないのだと思います。それでも日本の地で流されたキリシタンの血は覚えられていると信じます。その信仰で生きていきたいと願います。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

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「アメリカ第一主義は」2017年1月23日(月)

アメリカ第一主義は、聖書的には、アブラハムへの神の祝福の約束に反しています。「地上のすべての国民は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)が神の約束です。そして、哲学的には、エマニュエル・レヴィナスがその主著『全体性と無限』(岩波文庫)で問題にしている「全体性」に当たります。さらに、歴史的には、その「全体性」はナチスドイツの全体主義でありました。リトアニアのレヴィナスの家族のほとんどがナチスによって殺されたのです。

N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』を翻訳しているときに、6章であえて「イスラエル」をとりあげ、アブラハムへの祝福の約束に触れて、上記に引用したその「最後のセンテンスが極めて重要である」(106頁)と述べています。とても印象的なことでした。その約束はイスラエルの歴史を通して、またイエス・キリストを通して、「行きつ戻りつする物語」として「新天新地」まで展開していると、聖書全体を説き明かしています。

レヴィナスは、モーセの律法における神の在留異国人とやもめとみなしごの取り扱いを取り上げます。「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。すべてのやもめ、またみなしごを悩ませてはならない。もしあなたがたが彼らをひどく悩ませ、彼らが私に向かって叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめになり、あなたがたの子どもはみなしごになる。」(出エジプト22:21-24)

「他者の哲学」とレヴィナスの哲学は呼ばれています。その「他者」の具体的な例としてとして 「在留異国人とやもめとみなしご」を取り上げます。聖書ではさらに、選びの民であるイスラエルに在留異国人でありやもめであるルツが選ばれ、イエスの系図に取り込まれていきます。「全体性」は「他者」を排除します。ナチスドイツで起こったことはその思想が教会にも蔓延ってしまったことです。その結果はヨーロッパの教会の死です。

アメリカの教会も内向きになりすぎています。結局は自分のことしか考えられないのは事実ですが、自分の祝福、自分たちの祝福、自分の国の祝福だけを考えていたら、何のためのキリストの死なのかと、問われることになります。しかし現実には、そんな問いをも覆い消してしまうほどに自己満足の信仰に陥ってしまっているのかも知れません。歴史が繰り返すことを何とか避けなければなりません。

上沼昌雄記

「神の義と憐れみと」2017年1月19日(木)

昨年の暮れ近くにしばらくぶりに山の教会に戻ってきました。週報に知り合いの青年のことが祈祷課題になっていて、God’s justice and mercyと書かれていました。教会の会計をしている姉妹もこの青年のことを知っているので伺ったところ、飲食運転で傷害事故を起こして拘留中であると言うことでした。15年ほど前にも同じようなことを起こしてその時は3年間服役したと言うことでした。

この青年は私たちの息子とこの町の中学の時の同窓生でもあったので気になっていました。数年前から私たちの教会に来るようになって折々に話し合ってきました。どのような仕事をしているのかよく分からなかったのですが、その時点では免停状態からようやく解放されて、仕事も見つけて何とか自立しようともがいていることが分かりました。会計の姉妹も妻のルイーズも、彼がヒッチハイクをしていたので乗せて上げたことがあると互いに話していました。

昨年の夏頃にはガールフレンドに女の児が生まれたといって喜んでいました。トラックも手に入れて、これから自立して生活を築いていくものと期待をしていたところでした。そのようなときに飲食運転で事故を起こし何人かの人に怪我を負わせてしまいました。気だての良い青年なのですが弱さを抱えています。細かいことは分からないのですが、生まれてすぐに父親から捨てられて、お母さんと小さなトレーラーハウスのようなところで育ったようです。お婆さんの世話を最後までし、彼の腕の中で息を引き取ったと言うことです。それほどの優しい心を持っていますが、アルコールや薬物に手を出してしまう弱さを抱えています。

本人から牧師に書いた手紙を読んで、再生への思いも強くあることが分かり、刑の軽減の嘆願書をルイーズは公選弁護人に書きました。公聴会があると分かり郡の裁判所に出向いたのですが、時間の設定がうまく行かないでミスをしてしまいました。しかし公選弁護人と連絡が取れて、ルイーズの手紙も届いていることが分かりました。この2月7日に判決が出てくるようですが、再生のためにどこかの施設に預けられる可能性もありそうです。

ルイーズが彼に公聴会へ出向いたがミスしたことを手紙で書いたところ、本人から返事をいただきました。立ち直りたい思いがしっかりと書かれていました。与えられた女の児の父親として再生したいとはっきりと言っています。私たちも毎晩彼のために祈っています。教会も彼のために祈っています。先週の礼拝の時にはルイーズが経過報告をしました。刑期を終えて出てきたときに教会全体が彼のために応援していくものと思います。そのためにも教会はあります。

弱さを抱えていますので、そのどうにもならない闇の世界にすぽっと陥ってしまう危険があります。本人もどうすることも出来ない闇の力です。同時に本人が乗り越えなければなりません。その守りと導きがあるように祈り続けるだけです。神の憐れみを信じます。同時に、神は義の神でもあります。どのように取り扱われるのか導きを見守っています。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
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「神はなぜギリシャ語を用いられたのか」2017年1月12日(木)

旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれています。神の民を選び、その歩みを記すのに彼らの言葉であるヘブライ語を用いたのは納得がいきます。同じ意味合いでギリシャ語が用いられたわけではありません。「定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし」(ガラテヤ書4:4)とあるのですが、その定めの時に使われていたのがギリシャ語でした。

当時は宗教的な背景としてユダヤ教、文化としてのギリシャ哲学、政治体制としてのローマ帝国の三つ巴でした。N.T.ライトが強調しているところです。ローマ帝国の支配の下でしたが、公用語はまだギリシャ語でした。紀元前332年のアレキサンダー大王の地中海支配以来ギリシャ語が使われていました。紀元前2世紀にはヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に訳され、70人訳聖書として用いられていました。パウロも用いていました。

旧約聖書と新約聖書との間には400年にわたる中間時代がありました。バビロン捕囚からの解放後に、エズラとネヘミヤによるエルサレムでの神殿と城壁の再建の時からイエスの到来までの間です。実はこの中間時代はギリシャ哲学が最も栄えたときでした。神殿再建の前にソクラテスが生まれ、その後にプラトン、アリストテレスが登場してきます。パウロの時にはストア派とエピクロス派が栄えていました。

当時の地中海は想像以上にユダヤ人とギリシャ語を話す人とが入り組んでいました。イエスがエルサレムに入場されたときに、ヨハネ福音書12章が記しているように、ギリシャ人がイエスに挨拶に来ています。弟子たちが取り次ぐのですが、その時イエスが話されたたとえが「一粒の麦」です。あたかもイエスはソクラテスの死を知っていてその対比でご自分の死を語っているようです。パウロが、使徒17章で記されているように、アテネでストア派とエピクロス派の哲学者たちと論じていました。その時の説教が「死者の復活」でした。

「定めの時が来たので」と言われている通りに、神の福音が全世界に伝えられるために当時の公用語であったギリシャ語を用いたというのは納得がいきます。その背後でギリシャ哲学を通過することが必要であったと考えることも出来ます。ただそこには二つに意味合いがあります。正確さを期する哲学的な思想の中で福音の内容が言葉の上で明確にされるためという肯定的な意味と、逆に福音がギリシャ的な二元論の影響を受けて二千年のキリスト教の歴史のなかで変遷してしまったという否定的な意味です。

否定的な意味の代表は「キリスト教は民衆のためのプラトニズム」というニーチェの言葉です。ギリシャ哲学の二元論は肉と物質の世界を離れた「魂の救済」を求めていました。新約聖書の時代のあとこの思想がキリスト教を支配して、死者の復活に基づく新天新地よりも、死んだら天国に行くという霊的な意味だけでの福音理解になってしまいました。単なる精神的なキリスト教で、信じる私たちの心のことが中心になります。信仰義認論もその意味で捉えられています。それは脆弱なキリスト教で、ホロコーストを通して明らかになりました。

肯定的な意味では、ギリシャ哲学との対比の中でキリストによる救いを明確にするためと考えられます。たとえばコロサイ書で「むなしい、だましごとの哲学」とあって「この世の幼稚な教え(ストイケイオン)による」(2:8、参照:ガラテヤ書4:3,9)とあります。哲学に救いのないことは明らかですが、そのストイケイオン自体は哲学用語で、アリストテレスの『形而上学』(岩波文庫上159頁)で「構成要素、元素」と解説されています。千葉先生は「根源的要素」と訳しています。

パウロはその意味を知っていてこのストイケイオンを使ったと考えると、ギリシャ人が考える世界のあり方に対して、キリストによる世界観と生き方の意味をより明確にしていると取ることができます。あるいは神はそのことを分かっていて、御子であるキリストによる新しい世界のあり方を伝えるためにギリシャ語を用いたと考えることができます。言い方を変えると、パウロはギリシャ哲学を分かっていたので、それに影響されることなく、「御子は、万物より先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ書1:17)と言い張ることができたのです。

神がギリシャ語を用いられた歴史的事実に「なぜ」と問うことが許されているとすると、それはギリシャ語の意味に沿って新約聖書を読み直してみることかも知れません。 「幼稚な教え」だとどうしてもこちらの視点が強すぎます。世界の「構成要素、根源的要素」と元の意味に沿って捉えることで、その対比でキリストに沿って生き考えることの意味が浮かび上がってくるからです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

「心(ヌース)の一新によって」2017年1月4日(水)

コメントをくださる皆様へ、

上沼先生はコメントを見る習慣がないようですので、直接メールにてコメントされるとよいかと思います。

Web 担当: Hashimoto

 
クリスマスから年末までは穏やかな日が続きました。手付かずの落ち葉を少し燃やすことが出来ました。年が明けた途端に曇り空と雪と雨の毎日が続いています。しばらく続きそうです。そんなこともあって、暮れから読んでいる千葉教授の『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か』の原稿を、家に閉じこもって読んでいます。

原稿三章では、ローマ書3章を中心に神の啓示の事実性に注目しています。私たちの信仰以前に神の義の啓示がイエス・キリストの信・信実に基づいて示されていて、それは信じるものは誰でも義とされるためです。1章ではその神の啓示が神の怒りとして現されていて、信じない者は「良くない思いに引き渡され」(1:28))て、弁解の余地がないというのです。ローマ書1章から4章までで啓示の事実性と完結性に視点が置かれています。

原稿四章では、その啓示を「信じる」私たちの心の動きがローマ書5章から8章までで示されていて、その解明に当たられています。それは私たちの信仰心のことなのですが、多くの場合信仰の励みのためにパウロがどのようなことを言っているのかと注解して終わっています。「信の哲学」を標榜している千葉先生は、文体の解明から言語網の違いに注目しています。5章初めの「ですから、信仰によって義と認められた私たちは」と、4章まででは「弁解の余地のない」までに誰にでも当てはまっていたことに対して、「私たちは」と信じている自分たちの心の動きに視点が移っているからです。

その「私たちは」と言えば、5章から8章までで私たちの存在構成と機能として、「魂(プシュケー)」と「霊(プネウマ)」、「肉(サルクス)」と「からだ(ソーマ)」、「心(カルディア)」と「心(ヌース)」、さらに「良心」とか「思い」とか「認める」とか「見分ける」という用語が使われています。それぞれがどのような意味合いで使われているかに、千葉先生は細心の注意をはらっています。

「肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」(6:19)と、啓示の自己完結性に対して私たちの相対性をみています。それでも「肉の弱さ」で肉自体の罪性をみることは避けています。被造物としての肉の中立性を強調しています。「罪深い肉と同じようなかたちで」(8:3)御子を遣わしたと言うところも、千葉先生は文字通りに「罪の肉の似様性において」と訳しています。

先ほどの「良くない思いに引き渡され」(1:28))は「ヌースの無分別」のことで、その前にも使われている神を見分けることの出来ない能力のことで、千葉先生は「叡知の機能不全」と訳しています。「心の一新によって自分を変えなさい」(12:2)も「ヌースの一新によって」であって、 ここでも「わきまえ知るために」とあるように、ヌースは識別能力を意味しています。

それに対して「心(カルディア)」は、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(5:5)とあるように、聖霊の受け取り場を語っています。「神が人間と交わるときに窓口となる場が心である」と千葉先生は記しています。

その心で起こることをパウロ自身が多様なかたちで言い表しているのですが、当然千葉先生はそれらを厳密に考察しています。この内面的な機能については個人的に関心を持っていたのですが、極めることはしませんでした。それはただ怠慢であったとしかいえません。

言い訳になるのですが、多くの場合に聖書注解と神学理解というのが、パウロが多様に使っている言い回しを私たちの信仰心と言うことで一括して取り上げて、その内面の動きを正確には把握してこなかったように思います。むしろ自分たちの信仰の理解を完結している啓示の内容にまで広げて、自分の信仰理解を神の計画のように語って来たところがあります。聖書信仰と言ってもすでに出来上がった神学の枠を厳密に再考察してはいません。アウグスティヌスがこう言い、ルターがこう言い、自分の教派や神学校の創立者がこう言ったことが、神学的な枠になって、そこからでられないでいます。

千葉先生の原稿で、そのような神学的な枠を超えて、ただテキストに沿って解明していく長期にわたる格闘のあとに接しています。このような作業をあえて「信の哲学」と標榜する意図に、多少納得しています。雨降りの日々、原稿と格闘しています。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net