「イースターの故に、復活のからだを」2017年4月19日(水)

イースターの日に夫婦で1コリント15章を英語と日本語で読みました。少しずつ互いに歳を取ってきて身体の衰えを覚えるときになっています。「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(44節)この朽ちるからだがあるので、当然のように朽ちることのない御霊のからだもあると主張されています。

「血肉のからだ」は「からだ(ソーマ)」と「魂(プシュケー)で表され、「御霊のからだ」は「からだ(ソーマ)」と「霊(プネウマ)」で表されています。前回取り上げた「肉」はいずれ消滅するものですが、「からだ」は朽ちるものから朽ちないものへの変化を被ることのできるものとして描かれています。「肉のよみがえり」ではなく、「からだのよみがえり」です。「肉の贖い」ではなく、「からだの贖い」です。

「信の哲学」を標榜される千葉教授は、この「復活のからだ」についてのパウロの言表を意味論的に分析することで、「肉」と「血肉のからだ」の違いから、さらに変えられていく「霊のからだ」への変換を、パウロの心身論として展開しています。文字通りに「魂体(魂的身体)と「霊体(霊的身体)」と言い表します。「魂体もあるなら、霊的なものもある」と訳します。この霊的身体をいずれ被ることになることで、アダム以来の人間の本来のあり方の回復を見ています。人間として完成された姿を「魂体」から「霊体」への変容のうちに見るのです。パウロがキリストの復活のうちに人間のあるべき姿を見ていると言うのです。

このことは、N.T.ライトが新天新地を創造の完成されたあり方と見ていることに通じます。単に朽ちる世界を去って天国に行くことが救いの目的ではないのです。国籍はそこにあっても、「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んで」(ピリピ3:20)いるからです。復活のからだをいただいてキリストともに新しい天と地で治めていくのです。

千葉教授が大学の出版局から出す予定の原稿から、「復活のからだ」についてその一部を紹介します。「肉は受肉を介して『キリスト・イエスにおける生命の霊』との何らかの関わりがある限り、、、肉のおいて心が霊を受容する能力を持っている。最後のアダムであるキリストは、『生命を創る霊』であるとされている。そのキリストはイエスとして受肉された本人であった。、、、人間の肉は滅びるが、連続性においてある人間の完成が霊体においてよみがえるとするなら、その一つの保証はナザレのイエスの復活により与えられるであろう。肉の弱さを克服したイエスが霊体との連続性を明らかなものとしたと言える。」

このようなことが学問の世界で知的な作業として真剣に論じられているのです。「復活のからだ」が当時のギリシャ哲学との関わりで、パウロが切り開いた新しい人間観として熱く語られているのです。パウロの生きた語りを聴くような思いです。まさにパウロも千葉教授も私も生かされている福音の力なのです。パウロはそれゆえに「ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債」(1:14)と受けとめたのです。それは私たちの責任でもあります。

上沼昌雄記

「イースターを前に、この『肉』は」2017年4月11日(火)

イエスは受肉をしていたので死を確実に味わいました。そして復活によってその「肉」と「死」を乗り越えて「復活のからだ」を纏われました。「復活のからだ」は「霊(プネウマ)」と「からだ(ソーマ)」結びついて表現されています。ですから「からだ」を持っていたのですが閉じられた戸を通り過ごすことも、食べることもできました。実はイースターの前なのですが、その「復活のからだ」ではなく、生身のからだである「肉」について考えさせられています。

というのは、「神学者たちによって等しく『肉』が二義的な概念であると主張され、、、自然的な生物的な存在者と罪性を帯びた本性を持った存在者との両義的であると主張されてきた」ことに対して、千葉教授は「中立的な人間を支える生物的な構成要素」としてだけ「肉」を捉えているからです。それは意味論的分析の結果と言われます。

何ともチャレンジなのは「神学者たちによって等しく」と言われて、神学を囓ってきた者として、言われてみればどことなしに「肉」をそのように二義的に理解してきたし、説明をしてきたのは確かだと認めざるをえないからです。そう説明するほうが分かりやすいというか、受け入れやすい面もあるのも確かです。千葉教授は、それは「暗黙の神学的前提の密輸入」とまで言われます。それで考えさせられています。

その密輸入しやすい箇所を言語分析的に網羅した上で、イエスの受肉と贖罪の関わりで表現されているローマ書8:3の「罪の肉の似様性」 に触れています。 新改訳では「罪深い肉と同じようなかたちで」となっていてすでに神学的理解が密輸入されてしまっています。この8:3は、3:20の「業の律法に基づくすべての肉(新改訳「だれひとり」)」と同様に肉が理解されていて、「業の律法のもとには罪であることを逃れられない肉の 似様性」において神は御子を遣わしたと理解しています。現実にイエスの受肉の「肉」が初めから罪に汚れていることはないのです。ただ「肉の弱さ」(6:18)を抱えているのです。

この「肉」の中立性の具体的な表現がガラテヤ2:20と言います。大変微妙なギリシャ語の言い回しです。私はキリストとともに十字架につけられて。もはや私が生きているのではない。「今われ肉において生きているところを、われは、われを愛し、わがためにご自身を引き渡した神の子の信(信実)において、信(信仰)において生きている。」すなわち、「肉」において生きることが「信仰において」生きることを可能にしているのです。肉の中立性のゆえに「信仰において」生きることが出来るというのです。むしろ「信じること」の責任が問われることになります。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。」(ローマ14:22)

「肉」を二義的に理解して、初めから罪性を帯びたものと捉えていくのは、ギリシャ的な霊肉二元論を初めから受け入れていることを意味しているためかも知れません。ですから、その罪深い肉の状態から解放されて天国に行くことが聖書の教える救いの理解と当然のように受け入れられてきた面があります。ギリシャ的な世界観を知らないうちに密輸入して、それが聖書的と言い張ってきたと言えます。

パウロは逆に、そのギリシャ的な世界観がすでにあの地中海で支配的であったなかで、創造の秩序において相対的自立性を持つものとして「肉」を捉えていたように思われます。肉はそれ自体としては自己保存をはかるのですが、その制約の下でなお「信仰において」生きることが出来るのです。当然信じないことも起こるのです。そのような人間の相対的な中立性を支えているというのです。

千葉教授はこの理解のもとに心身論(霊肉論)、すなわち、「霊」と「ヌース」としての「内なる人」と「肉」との複合的構成をさらに分析しています。「心」と「良心」もそこに含まれています。その「心」の深くに働く神の霊をローマ書8章の課題として展開しています。

この制約と弱さを持つ肉のからだから霊のからだへの移行を可能にしてくれるのがキリストの復活です。ただイースターを前に、この「肉」を中立的に捉えることは、罪理解と同時に人間理解の方向転換が求められるのだろうと思わされています。

上沼昌雄記

「真実と信実と信仰と」2017年4月6日(木)

3月末にシカゴ郊外でファミリー・イベントがありました。その帰りにダラスに寄って、12月初めにサンディエゴの動物園で結婚式を挙げた義弟夫婦を訪ね、四泊五日滞在いたしました。実はちょうど昨年のその時から話が始まって、しかも彼はダラス、姉妹は山形ととんでもないほど離れていたのですが、間に立ってくれたご夫妻から紹介を受けて、その旨を義弟に伝え、その年のうちに結婚式を挙げたのでした。そんなことを互いに思い起こしながら、どうしてこのような結果になったのか、姉妹のおいしい手作りの日本食をいただきながら、日本語と英語を混ぜ合わせながら、感謝と驚きをもって語り合いました。

土曜日の晩も遅くまで話し合って、さて次の日の朝はどうしようかと言うことで、二人が今までに行かれた教会の話を伺いながら、姉妹が、折角牧師(私のこと)が来ているのですからここで礼拝を持ちましょうと言うことになりました。それも良いことと思い引き受けました。その朝は大雨が降っていましたので外に出る必要もありませんでした。始めるときに義弟がそれでは妻が賛美をしますと宣言をしました。姉妹は声楽家でもあります。「十字架のかげに」を独唱してくれ、皆で「アメージンググレース」を賛美しました。

ローマ書3章22節の「イエス・キリストの信」を取り上げました。千葉教授の40年にわたるローマ書研究から教えられていることと紹介して、その箇所で「神の義」が「イエス・キリストの信」によって示されていて「すべて信じる人」が義とされることから、「イエス・キリストの信(ピスティス)」とそれを信じる「私たちの信仰(ピスティス)」が二段構えで表現されていることを確認しました。さらに神の「義」とイエス・キリストの「信」が一つのこととして捉えられていることも確認しました。

私は自分が全部話す必要がないと思って、何かふさわしい質問がないかと考えました。このピスティスは同じ3章の3節で「神のピスティス」とも使われています。「神の信仰」とは訳せません。「神の真実」です。イスラエルの不真実があっても「神の真実」は変わることがないからです。そうすると「神のピスティス」は「神の真実」と、「イエス・キリストのピスティス」は「イエス・キリストの信実」と「私たちのピスティス」は「私たちの信仰」となります。「信実」は広辞苑にも載っています。英語ではfaithfulnessとfaithです。「私たちの信仰」は「私たちの信実/真実」ともなります。

それで、信実/faithfulnessであることが人間としての自分にどのような意味があるでしょうか、と問いを出し、しばらく思い巡らす時を持ちました。「イエス・キリストの信実」によって「神の義」が明らかにされ、私たちも義とされたのですが、その信実が生きている上でどのような意味を持っているのか分かち合いました。それぞれ思わされたことを語ってくれました。私は義父の信仰を思い出しました。特に義父の葬儀で、それまで義父がしてきたことが、本人は何も語らなかったのですが、参列者の口から途切れることなく延々と出てきたのでした。義父の信仰であり、信実さの表れであり、真実なことでした。

義父の召天の3日前に義弟もダラスから飛んで来てくれて、父の最後と葬儀には立ち会ってくれました。そのことが彼の中でどのようなインパクトを残したのかは知るよしもないのですが、彼自身の信実さがほとばしり出てくる契機になったのかも知れません。結婚に導かれた姉妹もその家族も彼の優しさと真実さに惜しむことなく賛辞を送っています。私たちが滞在していたときにちょうど結婚四ヶ月に至ったのですが、二人が信頼し合い寄り添いながら生活を始めていることをこの目で見ることができました。むしろ新婚四ヶ月での二人の間の信頼と信実さには目を見張るものがあります。

上沼昌雄記