「私とは、他者とはー『騎士団長殺し』を読んで」2017年6月27日(火)

2回目を時差ぼけと闘いながら読んでいて、36歳の主人公の「私」には名前がないことに気付きました。姓名を名乗る場面があって、名乗ったと記されているのですが、姓名は記されていません。他の登場人物にはしっかりと名前が付いています。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を引き継いでいる名前も伺えます。この主人公が名前のある妻に離婚を突きつけられてからの10ヶ月に及ぶ出来事が物語となっています。そして登場人物が似たような状況を抱えて「私」に関わってきます。むしろその「他者」に振り回されるようでありなが、無自覚のうちに主人公は自分の人生に対して責任を負っていきます。

これだけでは人生相談で終わりそうですが、実際の物語は、熟練した小説家によって細部にまで手が加えられていて、どの場面にも緊張感が漂っています。さらに「騎士団長殺し」と上田秋成の『春雨物語』の「二世の縁」とが関わり、ナチス高官暗殺未遂事件と南京大虐殺が関わり、さらにその上でイデアとメタファーを取り上げてきます。また、名前のない主人公を肖像画家と仕立てることで、登場人物の描写が絵画のように際立ってきます。文章にも人を寄せ付けない威厳があり、全体として洗練されていて、近づきがたい気品が備わっています。

それでいて誰もがどこかで経験しているというか、思い迷っていながら手を付けられないままであったものが、老練な小説家によって手塩にかけられ、納得のいくものになっています。だれもが夫婦の問題を抱え、時には離婚の危機に陥ります。また別のことで挫折を経験します。そうすると、名前のない「私」は、名前を隠すことで、誰でもである私になります。それはあたかも、ローマ書7章でパウロが「私」を登場させていることに通じています。「私は本当にみじめな人間です」と嘆く「私は」パウロであり、私であり、イスラエルであり、全人類ひとりひとりとなります。この辺は熟練した村上春樹が意図的に仕立てたことなのでしょう。

しかし、その「私」は妻から離婚を迫られることから始まって、友人の父で高名な画家が使っていた家に間借りすることで、その裏手の祠から聞こえる鈴の音と、あたかも自分を放っておかないかのように、そして自分を揺さ振るかのように、「他者」は自分の「意に反して」関わってきます。レヴィナスが言う通りです。その「他者」が善なのか悪なのか、「私」はぎりぎりのところで判断が迫られます。イデアは、多分、善のイデアといって良いのでしょうが、「騎士団長」として「私」を導いてくれます。「私」は悪なる人物を描くのですが、それ以上描いたら悪をこの世に引き入れることになると気付いて、未完のままの終わらせます。その識別力を身に着けることで、「私」は善に対する信仰を増し加えていきます。その「信じる力」(下巻540頁)が、「私」を妻の元にもう一度導いていきます。

36歳の名前のない「私」に、その二倍の年を重ねた名前のある私を重ねながら『騎士団長殺し』を読みます。「私」の10ヶ月のうちに起こったことが私の長い人生でも起こるし、むしろ起こると信じて生きることになります。私において信じることがその意味を問われるからです。

上沼昌雄記

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「「私とは、他者とはー『騎士団長殺し』を読んで」2017年6月27日(火)」への1件のフィードバック

  1. 先日は栄聖書教会に来てくださったことを感謝します。ライオン先生の生き様が伝わって来ました。
    いろんな苦難に黙々と耐え抜いた姿を思います。

    上沼先生と末松先生の豊かな友情と先生がこよなく栄を愛していてくださっていること。感動しました。

    先週少し色彩を持たない多崎つくる、をもう一度読んでみました。

    無意識の世界と意識の世界でつくるがもしかしてシロを殺したのは僕かもしれない。と内省を深めて行く過程、そしてそこに至るには友人との再会と触れるのには勇気がいるテーマ、過去との対峙がある。

    1回目読んだときには気づかない
    1回目読んでさっぱり分からないことがちょっとずつわかり嬉しかったです。

    つくるがゆっくりゆっくり癒されて殻を少しずつ破っていく過程はほんとに美しい。周りの友達特にクロも美しい。と思いました。

    このコメントを読んでまたいつかゆっくり騎士団長殺しを読んでみようかなと思いました。

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