「信じる力」2017年7月4日(火)

何と『騎士団長殺し』の最終頁の直前で「信じる力」という表現が使われ、しかも長編小説の最後のセンテンスが「きみはそれを信じた方がいい」で終わっています。なぜこの小説の最後で「信じる」ことが出てきたのかは、多分作者は自然に出てきたのですよと言うのでしょうが、読み手としては好奇心をそそがれ、どのような道筋なのか推測することになります。

「信じる力」は、主人公「私」とは鏡で逆に観たような登場人物の免色渉に、「私」が自分に言い聞かせる言葉です。最後のセンテンスは自分の小さな娘と信じている子に語った言葉です。実は免色さんにも自分の子どもではないかと思っている13歳の女の子がいます。それで「私」と免色さんのストーリーが交差するのです。というのは、免色さんはその女の子に近づくために「私」に接近してきたからです。肖像画を描く「私」に自分の肖像画を描いて欲しいという依頼をもって。「私」はその女の子の絵画教室の先生でもあったからです。

このような経緯にいたる物語が実は、次の書き出しで始まっています。「その年の5月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの山の上に住んでいた。」そこには当然なぜ「騎士団長殺し」なのかと思わせる、それなりに複雑な経緯が含まれています。その経緯には、当然名前のある妻から離婚を迫られた「私」が、多分「私」自身が気付かない複雑なやりとりの中で、自分を信じていく、自分に信実になっていく過程が含まれています。そこには『騎士団長殺し』という絵画とその創作者が大きな役割を担っています。

免色さんは経済的にも困ることがなく、すべてが計算尽くで、すべてを願い通りに行えると信じている人物です。しかもそのような情報管理の仕事をしています。独身なのですが、ある時に関わった女性が産んだ子がその13歳の女の子ではないかと思い、何とか接近しようとするのです。しかしこの女の子は、免色さんは何かを隠し、何かの策をいつも持っていると見抜くのです。すなわち信頼ができないのです。逆に「私」には信頼して話してくるのです。そのような人との信頼関係が生まれてくることで、「私」は人生への確かさを感じます。

免色さんはいろいろあって最後に自分は無であると「私」に向かって告白します。「あなたは望んでも手に入らないものを望だけの力があります。でも私はこの人生において、望めば手に入れるものしか望むことができなかった」(下巻269頁)と言います。そこには自分を打ち破るものは何もありません。自分の可能性の中でしか生きられないのです。免色さんは、「私」の中に望むこと、信じる力を認めたのです。確かに自分を打ち破り、傷つけられることがあっても、「私」は「信じる力」を得たのです。離婚を突きつけられた妻の妊娠にも、「信じる力」が働きます。

その山の上の住処の天井裏から見つかった『騎士団長殺し』という絵画のタイトルが示していることが、文字として記されている通りに起こることで、すなわち血が流されることで、しかも「私」の手で起こることで、信じる世界が抜き差しならないものになります。目に見え、手に触れる世界だけでなく、それを超えた世界への関わりになります。その信じることをこの世界でしっかりと責任を持って生きることになります。

ローマ書で「自分が良いと認めることによって、さばかれない人は幸福です」(14:22)と言われています。その前後に「信仰」のことが語られているのですが、そのことに通じそうです。信じることには信じるという認知行為と、信じるその人の人格的あり方が深く結びついているからです。

上沼昌雄記