「原稿用紙」2017年8月22日(火)

この夏は身の回りの書類と書籍の整理に取りかかりました。身動きが取れなくなってきたのと、何時かはしないといけないので、この際と思って始めました。書籍は黙っていても増え、積み重ねていくのですが、それでもどこにどの本があるのかは分かります。それに引き替え、書類はファイルに入っているのもあるのですが、そのままに机の上に積み重なっている状態です。それでも何とか分かるのですが、大夫怪しくなってきました。

それである書類が必要になってきて、さてどこにというのが、実際に取りかかる切っ掛けになりました。昔使ったケースに入っているかも知れない、しかし、そこに至るために机のまわりの書籍を除き、ファイルボックスを動かし、ようやく到着しました。実際にありました。と同時にその周りにあるボックスの蓋を開けることになり、もうどうにでも必要のないものがそのままになっていることが分かりました。これは捨てないといけないと確認したのですが、それを実行するためには、そのまわりのものを整理して、堀を埋めるように近づいていく以外にない状態でした。

敷地に物置があるのですが、その中の不要なものを片付けてスペースを作りました。そしてようやく机の周りにある不要なものを捨て、必要なものを物置に移動する作業を昨日いたしました。意を決して捨てたものは、28年前に日本から持ってきた一束の原稿用紙でした。原稿を書くために必要だろうと思って持ってきたのですが、恐らく一枚も使わなかったのではないかと思います。箱形のマックを手に入れてミニストリーに取りかかってから文章は全部ワープロでしてきたことになります。

実はこの整理をしていく中で、その箱形のマックで書いたミニストリーの最初のニュースレターが出てきました。同時にそれに続く関係書類も出てき、さらにしばらくして始めた「ウイークリー瞑想」の初期のものも出てきました。「ミニストリー25周年記念誌」のためにかなり初期まで辿れたのですが、その先はどこに行ったのか分からずじまいでしたが、今回その意味では、思いがけず発見することになりました。ミニストリーを始めた頃の紆余曲折ともがきを読み返すことになりました。

それでもマックを何台か新しいものにしながら、不思議に本を書くことになり、ウイークリー瞑想もこのように継続することができているので、もう原稿用紙を使うことはないだろうと思って処分することにしました。日本にいたときには全部を原稿用紙で書いてきたことになります。それはもう終わったのだと実感することになりました。

まっさらな原稿用紙を万年筆で一字一字埋めていくのは、ワープロにひらがなを打ち込んで漢字に変換していく作業とは趣が違います。村上春樹がその違いを上手に説明しているのですが、何と言っても原稿用紙に向かうときは、ワープロのようには簡単には書き換えが聞かないので、それなりに緊張して書いたことを思い出します。そしてそれは過去のものとして終わったのだと言い聞かせることになりました。

上沼昌雄記

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「現存在の外に」2017年8月14日(月)

「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた。」これは、千葉恵教授の出版予定の『信の哲学』の最後の章でハイデガーとの比較で記されている文章です(原稿736頁)。すなわち、「ハイデガーにおいてはあくまで現存在の内側から自ら解錠(決意)しようとするところに」違いを認めています。さらにそこに「ルターが恩寵に訴える」と付け加えています。

なぜ最後にハイデガーが取り上げられているかというと、ハイデガーの実存理解が実はそのルターの信仰理解の枠の中でなされているからです。 すなわち、 ハイデガーの存在の本来性と非本来性の理解が、 ルターの義人と罪人という枠組みからきているというのです。 興味深い視点です。同じドイツでのルターのパウロ書理解が、人間理解の枠になって、ハイデガーに伝わっていることになります。

そんなことに気付かされながら読んだのですが、ストレートに自分のなかでよみがえってきたことがあります。それは千葉先生が現在哲学教授として教えられている北大の学部でハイデガーを自分なりに一生懸命読んでいたときのことです。当時の大学は学生紛争の中でしたが、ハイデガーの実存分析に惹かれました。すでに信仰を持っていたのですが、信じている自分の心の中のことは不明瞭な闇に覆われていました。信仰者として存在している自分の内側はどうなっているのか、分かったようで分からない曖昧模糊とした状態でした。それでハイデガーの実存分析に関心を持ったのかも知れないと思い起こすことになりました。

しかしその時点でも、だからといって自分のなかに真理があるとは決して思いませんでした。真理は自分の外にあると認めていました。私という「現存在の外に」に真理はあるのす。それでもそれを信じている自分の内側はどのようになっているのか、どこかつかみ所ないままでした。ハイデガーの『存在と時間』には、存在の「本来性、非本来性」から始まって「覚悟性」とか「関心」とか「配慮」とか「決断」という表現もあって、一生懸命に読みました。今その本をふりほどいてみるとほとんどの頁に赤線が引いてあります。

ここにきてハイデガーにまた興味が湧いてきたのですが、それ以上に、ハイデガーの実存理解がルターの信仰理解の枠の中でなされているとすると、ルターの信仰理解、特に信仰義認の理解をしっかりと捉えておくことが、興味以上のこととなってきました。「ルターが恩寵に訴える」というのは、「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた」ことを認めつつ、その外にあるものも自分内側のこととして、すなわち、信じている自分の信仰のこととして体系付けてしまうことを意味しています。自分の信仰も恩寵に寄ることで神の啓示をも自分のなかに引き込んでいるのです。

千葉教授の提示する「信の二相」は、神の側と人の側の言語網を区別することで、その関わりを解明していることです。具体的にはローマ書1-4章と5-8章のそれぞれの言語網を打ち立て、その上でその関わりを明確にしています。ルターはその区別を認めていても、こちらの信仰をもとに信仰理解を打ち立てたのです。「神の前の現実とわれわれの生身の現実を分離しないことにこそ正しい信仰理解があるというルターによる主張が問題なのである。」(原稿691頁)宗教改革500年を迎えて問い直されている信仰義認の問題点です。

それは神学そのものの問題でもあります。「外に」ある真理をこちら側に引き入れて神学体系を打ち立てていくことが二千年の教会の歴史で繰り返されてきたからです。教派とその教理はそれぞれの信仰理解のうえに築かれてきたのです。千葉教授は「神学の前提の密輸入」と呼んでいます。そうだとすると自分の神学を勝手に持ち込まないで、ローマ書を読んでいくという作業は想像以上に困難な作業であることが分かります。千葉教授ローマ書理解はその試みをしています。

そして、その読み直しがハイデガーの捉え直しにもなります。聖書の読み直しが哲学の捉え直しに繋がると言えます。ユダヤ人哲学者レヴィナスが、ハイデガーの実存理解に対して、「他者」を視点に入れてきたことと無関係でないのです。自分のうちには真理はないからです。「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた。」このことを神の前と自分の前の現実として認めて、なお聖書を読み直していく責任があります。

上沼昌雄記

Masao Uen

「アウグスティヌスのことで」2017年8月3日(木)

2013年11月6日付けで「アウグスティヌスの誘惑」という記事を書きました(以下に添付)。それに対して親しい友人が心配してレスポンスをくれました。<今回の「瞑想」をたいへん興味深く読みました。「こんなこと、言ってしまって大丈夫だろうか」と案じながらです。「神聖ニシテ侵スベカラザル」存在がアウグスティヌス(主義)であると思います。もちろん、ルターもカルヴァンもウエストミンスターも「権威」には違いないのですが、アウグスティヌスは別格ですよね。その彼がギリシア哲学に深く影響されていること、そして、そのことが現代のキリスト教とキリスト者のあり方を歪めていることは、まぎれもない事実ではないでしょうか。誰かが言わなければならなかったが、なかなか言えなかった。「神聖ニシテ」ですから。でも、N.T.ライトも語り始めて、だいぶ見通しもよくなってきた。今回の「瞑想」もその流れにつらなる大事な発言と受け止めて、読ませてもらいました。>

記事の要点は、アウグスティヌスの「真理は人間の内部に宿っている」と見る視点が、結局は心の安らぎ、平安を第一とするこちら側の信仰に重点が置かれ、それが2千年のキリスト教になってしまっているのではという、一つの問いかけです。いくつかレスポンスをいただいたのですが、上記の友人のものは「そんなことを言って大丈夫?」という危惧と、また共感を示してくれたので、それ以降心に残っていました。

北大の千葉教授はローマ書の意味論的分析を施した上で、その後の神学史上の問題にメスを入れています。その一つとしてアウグスティヌスに関して次のような解説があります。「アウグスティヌスは自ら敬虔であろうとしてかえって自らの心的状態に拘泥してしまったと言える。」(原稿615頁)その具体的な箇所としてローマ書1:17の「信仰から信仰へ」のアウグスティヌスの理解を取り上げています。

この「信仰から信仰へ」のテーマについては、昨年末の12月27日付で取り上げたのですが、N.T.ライトと千葉教授は、神の真実・Faithfulness から私たちの信仰と捉えています。それに対してアウグスティヌスはどちらも私たちの信仰ととっています。しかし考えてみれば、このアウグスティヌスの理解が2千年の聖書理解にもなっていたわけです。どうしても私たちの心的状態のこととして聖書を見てしまうのです。信仰義認もこちらの信仰のことと見てしまいます。それはルターにまで繋がっていると言えます。

千葉教授のローマ書の意味論的分析が語っている視点は、人間の側の信仰のあり方を否定しているのではなくて、神の側のことをすべてこちらの信仰のこととして捉えることに喚起を促しているのです。パウロはローマ書で神の側のことは神の前でのこととして1-4章で語られ、その上で、5-8章で肉の弱さを持つものとして私たちの信仰のあり方を語っていると分けています。その間を結ぶのが3:22の「イエス・キリストの信実」です。(ガラテヤ書2:16、3:22もその意味合いになります。)

神の前のことは神のこととして完結していて、こちらの信仰でどうにかなるものではないのです。肉の弱さを持つ私たちは聖霊の助けによってその神の啓示に信仰によって結びつくのです。その意味での関わりのことを千葉教授はローマ書7章8章で肉のテーマとともに細かく分析をしています。だからといって神の啓示の完結性が変わることはないのです。

4年ほど前にアウグスティヌスのことで思い切って書いてみました。友人が心配してくれたのですが、それでキリスト教界から閉め出されることはありませんでした。むしろ何かがおかしいのではという、共鳴に近い問いかけをいただいています。この友人に今回の原稿を読んでもらいましたら「信仰のミーイズムの源泉」と呼んでいました。もしかしたら、アウグスティヌスにまで遡って、聖書理解はどうなっているのかと問いかけて良いのかも知れません。ローマ書そのものが、アウグスティヌスやルターの衣を脱いで、もう一度捉え直されることを待っているからです。

上沼昌雄記