「宗教改革500周年に際して」2017年10月25日(水)

 来る10月31日が宗教改革500周年記念日になります。その前数百年と支配していた中世カトリックの世界から脱却して福音信仰への新しい門戸を開いてくれました。教会の権威ではなくて、聖書の権威の故に啓示された福音をそのまま信じる信仰を獲得しました。大きな重い遺産をいただいていることになります。
 この宗教改革500周年に合わせるように、ルターの語っていることに直接的に関心を持つようになりました。今まではいただいている遺産の上にあぐらをかいていたのですが、ルターのとらえた世界が同時にどのように聖書理解に影響しているのか気になってきました。それは直接的には千葉恵教授のローマ書のテキストの徹底的な意味論的分析に接したことがあります。その前にN.T.ライトによる信仰以前といえる創造から新創造の一大パノラマの聖書の世界に接したこともあります。さらにその前にユダヤ人哲学者のレヴィナスによるモーセの律法における「やもめ、みなしご、在留異国人」への配慮を、哲学が観てこなかった「他者」として取り上げていることに関わってきます。
 ルターの「信仰のみ」はその通りなのですが、その福音信仰の対にある「律法」の否認は行き過ぎのように思います。新改訳聖書第三版でローマ書10:4は「キリストが律法を終わらせたので」とあるのですが、それはルターが『ローマ書講義』で語っていることで、そのまま踏襲されてきました。むしろキリストの信実によって律法が成就したのであり、その結果具体的に「やもめ、みなしご、在留異国人」を隣人として愛していくことが求められているのです。それで隣人のために祈ることを少しでも実行するようにしています。
 N.T.ライトは聖書の創造から新創造の一大パノラマを提示することによって、ルターによる信仰義認が信じている私たちの世界にこだわり過ぎると警告しています。歴史的には、私たち自身の信仰理解、聖書理解が大切で、その結果それぞれの聖書理解による教派を生み出してきました。それは悪いことではないのですが、自分の信仰理解を絶対視してしまう危険性を持つことになりました。少しでも異なった聖書理解を排除することが聖書信仰にまでなってしまっています。
 その上で千葉教授のテキストの意味論的分析に接して、その成果であるローマ書の言語分析を読むことで、テキストそのものへの関心を呼び覚まされました。そして今手にしている邦訳聖書もルターの理解に近いというか、影響されているのではないかと思うようになりました。先のローマ書10:4の訳語と同時に、すでに取り上げてきたローマ書3:22の「イエス・キリストのピスティス」の訳語もルターから出ていると言えそうです。
 そうなるとルター自身のテキストの読みも気になってきました。幸いに新教出版社から『ローマ書講義』(上下)が出ています。『ガラテヤ書講義』も「世界の名著」でその一部を観ることができます。『ローマ書講義』には差し込みでルターの講義録の写真が載っています。そこからも分かるのですが、ルターはラテン語訳をテキストにしているのです。そうするとローマ書の原典はギリシャ語ですので見逃せないテキストの問題を抱えていることになります。
 というところで個人的に宗教改革500周年を迎えています。ルターの原点に戻された感じですが、現時点ではローマ書のギリシャ語原典と格闘していますので、ルターのテキストには入ることができそうにありません。そのための資料もそろっていません。ただ同じように関心を持ってくださる方がおりましたら取り組んでいただければと思っています。特に若い方々に期待をしています。
 それにしても聖書理解には重厚な歴史があることが分かります。その一端を誰もが担っています。『新改訳聖書2017』もまさにその一端です。取り上げたローマ書3;22と10;4に関しても検討がなされてきていることが分かります。という動きの中で多少なりともまだ責任を負わされているのかなと思っている次第です。
上沼昌雄記
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「私には、自分のしていることがわかりません。」2017年10月19日(木)

これはローマ書7章15節の新改訳聖書の第三版の表現です。『新改訳聖書2017』でどのように変わっているのか分からないのですが、罪の縄目に苦しむ心の表現として、パウロに同調するように、心の深くにしっかりと留まっていてます。自分の意に反して自分が動いてしまってどうすることもできない心の状態を言い表していると納得し、心の深くでその通りと繰り返してきました。別の言い方では、この言い回しは的確に自分の心を言い表してくれると納得してきました。納得してきたので、それ以上の言い回しが可能なのか考えもしませんでした。
 千葉教授は意味論的分析を施して次のように訳しています。「というのも。われが[最終的に]成し遂げるところのものをわれは認識していないからである。」単に漠然と何かを「している」ではなくて、「成し遂げるところのもの」と明確な目的語を伴った文章であると指摘しています。そしてその目的語とはその前の13章で「罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって」で言われている「死」であると言います。興味深いのですが、ブルトマンはそれを認め、ケーゼマンは認めていないと注のように加えています。さてそれではN.T.ライトはどうなのかと思って彼の注解書をみたのですが触れていないようです。
 実はこの前後で「行う」とか「実行する」という別のギリシャ語が使われていて紛らわしいところですが、17節でも「成し遂げる」が明確に目的語を持って使われています。第三版では「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」となっています。この表現も何度も繰り返し自分の心に言い聞かせ、そのまま心の襞にしっかりと留まっていて、このローマ書7章の理解の手がかりとしてきました。しかしそれは漠然としたものではなくて、すでに13節から始まって「死を成し遂げている」心の状態を語っているという指摘に衝撃を受けました。自分の言葉でも行為でも、自覚していなくても、確かに肉の結ぶ実として死をもたらしていることが分かるからです。
 肉にある私たちは罪の結果としての生物的な死を迎えます。それでも内なる人として神の律法を喜んでいて、そこに御霊の執り成しが働いて霊の実を少しでも結ぶ人生をいただいています。ローマ書8章2節で「いのちと御霊の律法」を「罪と死の律法」に対していただいているからです(第三版では「原理」となっていますが、前後関係から「律法」とるべきところ)。その内なる人に御霊をキャッチするヌースが働いて、そのヌースの刷新(「心の一新」ローマ書12:2)によって外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされています。
 そうでありながら肉がそのまま動き出すと知らないうちに「死を成し遂げている」ことに、恐れながら気づきます。その死とは、人との関わりでは、その人との間に死をもたらすだけでなく、その人を生かせないという意味でもその人を死に向かわせてしまうことがあります。どうしても批判的に人を見てしまいその人が生きる道を閉ざしてしまうことがあるからです。妻や夫に対して、子供に対して、親に対して、友に対して、近隣の人に対して、教会の兄姉に対して、牧師に対してどこかで「死を成し遂げている」のです。
 これは消極的な言い方なのですが、私たちの務めは積極的にその人を生かしていくことにあります。そのためにはこちらが死ぬこともあるのです。しかし視点を変えれば、キリストともにすでに十字架で死にましたと過去形で言えることです。その死を体験しているものとして、さらに積極的に人を生かしているのか、知らないうちに人に「死を成し遂げている」のか恐れを覚えるところです。今までの自分の言葉や行動で死を成し遂げてしまったことに気づきます。
 しかし「いのちと御霊の律法」をいただいているものとして、どのようにしたら死ではなくその人にいのちを成し遂げることができるのか、歳とともに考えています。正直結構難しいことですが、まだ遅すぎないと言い聞かせています。なぜならばそのために生かされているからです。またそのためにこそ「イエス・キリストのピスティス」が神との間の媒体となってくれたからです。
上沼昌雄記

「イエス・キリストのピスティスを介して」2017年10月12日(木)

N.T.ライトFB読書会に属していて、そこに『新改訳聖書2017』が書店に並んでいる写真が掲載されていました。いよいよ出たのかという感動と同時に、そこでローマ書3:22の「イエス・キリストのピスティス」がどのように訳されているのか気になりました。ということを察してくれたように札幌の小林牧師が「イエス・キリストの真実」と脚注に載っていると教えてくれました。ガラテヤ書2:16も同じように脚注に載っていると確認してくれました。本文では多分従来通り「イエス・キリストを信じる信仰」となっているのだと思います。この秋の日本の旅を延期していますので、本文を手にするのは先になります。
 現在の聖書学の成果を踏まえて少なくとも脚注に載せてくださいと文面でお願いしたこともあって、気になっていたことでした。聖書理解の一つの前進であると思います。それでも「イエス・キリストのピスティス」なので訳語として「イエス・キリストの信実」でもよいのではないかとも思います。おそらくローマ書3:3に「神のピスティス」が出てきますので、それに合わせたのでしょう。それではなぜ「イエス・キリストのピスティス」がそれほどまで大切かというと、神の啓示の媒体に関わるからです。それはまた信仰義認の理解に関わるからです。特にローマ書3章21節から26節は、神の義が「イエス・キリストのピスティス」を媒体として示されていることを説明しています。信じられないほど注意深くパウロは提示しています。
 それで分かることは、従来通りの「イエス・キリストを信じる信仰」だと、神の義が私たちの信仰を媒体としていることになり、すなわち、私たちの信仰で神の啓示が左右されることになり、それはあり得ないからです。ただ歴史的にもルター以来それが私たちの信仰形態になっていて、私たちの信仰の心の状態のことが第一の関心事になっていると言えます。それに対して神の義はまさに「イエス・キリストのピスティス」を媒体として示されたもので、神の啓示の神の前での完結性が語られているのです。それに基づいて初めて私たちの信仰が可能になるのです。そのように捉えと多少気が楽になります。
 N.T.ライトFB読書会のコラムにも書いたのですが、ライトは「イエス・キリストのピスティス」の「の」を主格の属格ととります。すなわちイエスが信じた信仰 (faith) となります。それに対して北大の千葉教授はその「の」を帰属の属格ととります。すなわちイエス・キリストに初めから属していた属性 (faithfulness) となります。千葉教授は「イエス・キリスト」の称号が行為の主体に用いらることはないと言います。さらに「神の義」が「イエス・キリストのピスティス」を媒体としていることで、一般に訳されている「何の差別もない」は、「神の義」と「イエス・キリストのピスティス(信)」には「何の分離もない」となると言います。すなわち、神にとって信と義は一つであるとことの宣言なのです。
 23節から26節まではその信義が一つであることの説明だと言います。どのように説明されているのか千葉教授訳をたよりに、ギリシャ語テキストに当たりながら(千葉教授とのやりとりも入れて)確認してみると、「ご自身の義を現すため」という表現が2回繰り返されていていることが分かります。すなわち、神の義がイエス・キリストのピスティスを媒体に現されたことで、私たちの信仰の対象が明確になったのです。信仰義認の信も義も一義的には神のものなのです。それは私たちの心の動きとは関係がないのです。その心との関わりに関して千葉教授は、パウロが特にローマ書7章と8章で、3章での啓示の自己完結性とは別に語っていること見ています。いわゆるパウロの心身(霊肉)論です。その区別を確認しないで初めから結びつけてしまっているために神学的理解の混乱を来していると言います。
 「イエス・キリストを信じる信仰」という従来の訳はその混乱の元とも言えます。もしそれがルターのドイツ語訳から出ているとすると、『新改訳聖書2017』の2017年が意味している宗教改革500年周年は、いまだ聖書理解の途上のこととして捉えるべきです。その意味でも確認してみたい箇所がまだあります。例えば、続きのローマ書3:27の従来の「行いの原理」「信仰の原理」は原典通りに「行いの律法」「信仰の律法」になるべきと思うのですが、どうなっているでしょうか。ローマ書10:4の「キリストが律法を終わらせた」は「キリストは律法の目標」になっているのでしょうか。
 ともかく多くの方々の努力によって新しい翻訳が実現しました。日本の宣教の新しい展開を開くものと思います。同時にさらなる聖書の学びをともに続けていきたいと願います。
上沼昌雄記

「内なる人としては」2017年10月4日(水)

前回「肉にあって信仰を持つ」テーマで、友人の牧師のリコーダー奏者である息子さんのことを書きました。その息子さんのお父様から以下のメールをいただきました。承諾をいただいてそのまま記載します。
 
 <今晩、息子に一本取られました。ハンセン病に罹患した後に、インドに向かい、ヒマラヤ山麓の麓でハンセン病患者に仕えたジェニー・リードというすばらしい婦人宣教師がいます。彼女は自分が患った病を意識しながら、ラスキンという人のことばを引用して、次のように述べています。
 
 「人生という楽譜には、ところどころ休止符があります。人間はそれを、時々「曲」の最後だと早合点します。この休止符は、神がその楽譜の中で、病気や事業の失敗などをおいて、強制的に賛美の合唱をやめさせて、しばらく休ませるためのものなのです。そうであるのに、人間はそれを、神にささげるべき音楽が絶たれてしまったと思って、嘆き悲しむのです。神さまは、ご計画なしに、人生の楽譜をお書きにはなりません。この曲を練習して、どこで休止符に出会っても、うろたえないようにしたいものです。『求めなさい。そうすれば、神さまは、タクトを振り続けてくださるでしょう。』」
 
 どうにかイスに座れている息子に先のことばを紹介しました。脱ステロイドのリバウンド症状で全身かきむしり、低血糖症で動けず、指も腱鞘炎となりリコーダーも持てず、一日中部屋に籠り、布団の中にいることが多い息子を励ますために。息子の反応はというと、息子はしらっとしています。特に感銘を受けた様子もありませんでした。そして声も余り出せずひそひそ声で(家内の通訳を介して)こう言ったのです。「オレは違うと思う。休止符ではなくて展開部なんだ。オレはこれまでの中で一番賛美ができんだ」と言うのです。私は、「今は大変でも次につながる休みの時、希望はあるよ」と励まそうとしたわけですが、「休止符」ではなく「展開部」「賛美」という以外なことばに、えっ、先を行っている、と、しばらく言葉が出ませんでした。私の負けでした。
 
 読んで一瞬、自分が同じような肉の苦しみに遭ったらどうなるのかと思いました。気力がくじけてしまうだけでなく信仰もなくなってしまうかもしれないと思いました。病で思いがけない人生に遭遇することを「展観部」と受け止める視点が自分の中で出てくるとは正直思えませんでした。どうしてこの息子さんはこのような病の中でそれに圧倒されないで、なお神を見上げ賛美をささげる信仰を得ているのだろうかと思わざるを得ませんでした。
 
 ただ不思議なことに、続いて千葉教授のローマ書7章の心身論(霊肉論)を読んでいて、22節の「なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法に喜んで同意しているからである」(千葉訳)の「内なる人間」の意味づけを詳細にわたって解き明かされている場面に接したのです。その「内なる人間」が肉の中にある部位としてあって、肉の欲求とは別に信仰の場として与えられているという説明が、この息子さんに当てはまるのではないかと思わされました。肉は弱さを抱え、限界があり、病を負い、いずれ死を迎えるのですが、その肉に神の律法に喜んで同意する部位が与えられていると言うのです。
 
 そしてその「内なる人間」の隠れた機能のようにヌースが働き、しかもそこはいつも「ヌース(心)の一新」(12:2)がなされる場なのです。それは8章に入って「心のうめき」を覚えるところであり、御霊のうめきを感じ取るところなのでしす。まさに御霊の執り成しが「ヌースの一新」によってなされる場が「内なる人間」と言えるのです。
 
 「内なる人間」と「肉」との対比で人間を見る千葉教授の心身論は、キリスト教に侵入しへばりついている霊肉二元論では説明しきれない人間の内面とその機能を浮き彫りにしてくれます。肉は弱さがあり、限界があっても、その内側になお信仰をいただき、神の霊によって一新される部位をいただいているのです。それはなんと言っても希望です。この息子さんのように痛みと苦しみの中で同じ姿勢をとれるのか自信はないのですが、少なくとも私の「内なる人間」がなお神を喜び、神を見上げてくれるのだと言い聞かせることができます。
 
上沼昌雄記

「肉にあって信仰を」2017年9月27日(水)

「肉」のテーマに関して必ずレスポンスをくださる友人の牧師がおります。というか少し前に「ヌース」を取り上げたときにもレスポンスをくださり、その折に「肉」はどうなのでしょうと問いかけてくれたのです。ヌースは「心」とか「思い」「知性」と現行訳で表現されていますが、人間の内面でどこかで超感覚的なものにヒットする部位といえます。そのヌースをどこかに含んでいるのがこの肉です。ですからどちらも四六時中、しかも死ぬまで付き合っているあまりにも身近な存在といえるのか機能です。あまりにも身近で同時にどのように捉えたらよいのか惑わされるものです。しかし聖書はヌースのことも肉のことも結構語っています。
 この牧師とやりとりをしながら、一度息子さんの病のことを話してくださったのを思い出して、いかがですかと尋ねました。かなり詳しく返信してくれました。「全身赤くただれ汁が出て、裸で全身を掻きむしりながら、うめき苦しんでいました。文字通りヨブでした」という時があり、今でも回復の戦いの中で時にはこのような日々、また闇の夜を送られているようです。「夜中、手を挙げて、もう耐えられないから天に召してください、というような仕草もしていたようです。しかし、彼の口から、神への不信のことばはいっさい出ません」と記してくださいました。父親として息子さんが肉の病の戦いの中でどこかで「神と向き合っていた」時があったと認めています。
 この「肉」のことは、千葉教授がパウロの心身(霊肉)論として取り上げている論考を読みながら教えらていることです。綿密に筋立てを持って取り上げてくださっているので、今まで不明であったこの肉の意味合いで気づかされる面が多くあり、つまみ食いをするように取り上げています。そのつまみ食いの一つが、有名なガラテヤ書2章20節の千葉教授の意味論的分析です。神の前に置いては「私」はキリストともに死んでいるが、人としては「私」はなお「肉」にあって生きているのです。しかもその「肉」において「信仰」を持って生きていると言うのです。
 「肉おいて信仰を持つ」と言われ、確かにそうだ、肉を離れて信仰を持っているわけでないという当たり前のことに、何か慰められる思いをいただきました。肉の領域とは別に信仰の領域がどこかにあるような錯覚を持ってしまいがちなのですが、まさにこの肉において信仰をいただいているという、見方によっては当たり前のことなのですが、そうなのだと不思議に納得をいただきました。
 同時にやりとりをしている牧師の息子さんのことを思い出したのです。肉の試練にありながら、なお信仰を持って回復のための戦いを続けているのです。苦しみ激しさの故に、ヨブの奥さんのように神を呪って死んでしまえと思うこともあり得ることです。しかしこの息子さんはまさに苦しい肉において神を見上げ、待ち望む信仰を自分の生きる姿勢としています。それでいいのだという響きが届いてきます。肉は病を負い、死を迎える弱さを抱えているのですが、その肉において信仰を持っているのが響いてくるのです。
 なおその「信仰」のことをガラテヤ書2章20節は、とても微妙な言い方で大切なことを伝えています。直訳的には「神の御子の信実によって信仰に生きている」と言えそうです。私たちを愛して命を捨ててくださった神の御子のピスティスの故に、「私」も「信仰」によってこの「肉」にあって生きているというのです。単なる信仰の強さでも頑張りでもないのです。こちらの信仰の前にイエス・キリストの信実の歩みがあったのです。そのキリストと神の前にあってはすでに死んでいると認めるのです。その上でなお人としてはこの「肉」において「信仰」をいただいているのです。
 同時に「肉」をいただいている「私」としては、信じることも信じないことも自由なのですが、神のなされたことにおそらくこちらのヌースがヒットして、信仰が芽生えたのでしょう。そうであれば、肉としては弱さがあり、限界があり、病を負い、死を迎えることがあっても、この肉において信仰を持って生きることは、見方を変えれば、まさに恵みなのでしょう。肉だけであったらどこにも行けないからです。私たちには「御霊のからだ」に変えられる約束があるのです。
 それでもこの牧師の息子さんが少しでも回復されることを祈ります。この牧師のお父さんのように鋭い感性を持っている青年のようです。その感性と信仰が生かされる日が来ることを信じて祈るのみです。
上沼昌雄記