来る10月31日が宗教改革500周年記念日になります。その前数百年と支配していた中世カトリックの世界から脱却して福音信仰への新しい門戸を開いてくれました。教会の権威ではなくて、聖書の権威の故に啓示された福音をそのまま信じる信仰を獲得しました。大きな重い遺産をいただいていることになります。
この宗教改革500周年に合わせるように、ルターの語っていることに直接的に関心を持つようになりました。今まではいただいている遺産の上にあぐらをかいていたのですが、ルターのとらえた世界が同時にどのように聖書理解に影響しているのか気になってきました。それは直接的には千葉恵教授のローマ書のテキストの徹底的な意味論的分析に接したことがあります。その前にN.T.ライトによる信仰以前といえる創造から新創造の一大パノラマの聖書の世界に接したこともあります。さらにその前にユダヤ人哲学者のレヴィナスによるモーセの律法における「やもめ、みなしご、在留異国人」への配慮を、哲学が観てこなかった「他者」として取り上げていることに関わってきます。
ルターの「信仰のみ」はその通りなのですが、その福音信仰の対にある「律法」の否認は行き過ぎのように思います。新改訳聖書第三版でローマ書10:4は「キリストが律法を終わらせたので」とあるのですが、それはルターが『ローマ書講義』で語っていることで、そのまま踏襲されてきました。むしろキリストの信実によって律法が成就したのであり、その結果具体的に「やもめ、みなしご、在留異国人」を隣人として愛していくことが求められているのです。それで隣人のために祈ることを少しでも実行するようにしています。
N.T.ライトは聖書の創造から新創造の一大パノラマを提示することによって、ルターによる信仰義認が信じている私たちの世界にこだわり過ぎると警告しています。歴史的には、私たち自身の信仰理解、聖書理解が大切で、その結果それぞれの聖書理解による教派を生み出してきました。それは悪いことではないのですが、自分の信仰理解を絶対視してしまう危険性を持つことになりました。少しでも異なった聖書理解を排除することが聖書信仰にまでなってしまっています。
その上で千葉教授のテキストの意味論的分析に接して、その成果であるローマ書の言語分析を読むことで、テキストそのものへの関心を呼び覚まされました。そして今手にしている邦訳聖書もルターの理解に近いというか、影響されているのではないかと思うようになりました。先のローマ書10:4の訳語と同時に、すでに取り上げてきたローマ書3:22の「イエス・キリストのピスティス」の訳語もルターから出ていると言えそうです。
そうなるとルター自身のテキストの読みも気になってきました。幸いに新教出版社から『ローマ書講義』(上下)が出ています。『ガラテヤ書講義』も「世界の名著」でその一部を観ることができます。『ローマ書講義』には差し込みでルターの講義録の写真が載っています。そこからも分かるのですが、ルターはラテン語訳をテキストにしているのです。そうするとローマ書の原典はギリシャ語ですので見逃せないテキストの問題を抱えていることになります。
というところで個人的に宗教改革500周年を迎えています。ルターの原点に戻された感じですが、現時点ではローマ書のギリシャ語原典と格闘していますので、ルターのテキストには入ることができそうにありません。そのための資料もそろっていません。ただ同じように関心を持ってくださる方がおりましたら取り組んでいただければと思っています。特に若い方々に期待をしています。
それにしても聖書理解には重厚な歴史があることが分かります。その一端を誰もが担っています。『新改訳聖書2017』もまさにその一端です。取り上げたローマ書3;22と10;4に関しても検討がなされてきていることが分かります。という動きの中で多少なりともまだ責任を負わされているのかなと思っている次第です。
上沼昌雄記
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