「時代の移ろいとともに」2018年1月30日(火)

 新しい年も早くも1月が終わろうとしています。日々繰り返しの毎日を送り、自分の考え、取り組んでいることには変わりがないと思いつつも、時代の移ろいの大きな波に対面していることも確かです。
 前回村上春樹のことで、真似をしながら自分なりに文章を書いてきたことを記しました。それは容易なことであったという印象を与えたかも知れません。そのように思ったときに『村上春樹は、むずかしい』という本を書いている評論家がいることに気づき、しかも一昨年この欄で取り上げたことも思い出しました。それで再度読み直しました。村上春樹の小説が戦後の時代の移ろいとともに変化していることを見事に解説しています。
 この評論家は戦後70年の時に『戦後入門』という本も書いていることが分かりました。幸いにその書に基づいての講演のビデオを観ることができました。戦後70年経っても「戦後入門」と言い張る意味合いを多少理解できました。その70年の時代の移ろいに村上春樹の小説一つ一つが位置づけられている説明には説得力があります。
 確かに『ねじ巻き取りクロニクル』でノモンハン事件を取り上げ、『アンダーグランド』では1995年の地下鉄サリン事件の被害者たちのことを取り上げていることからも、この小説家が歴史と時代の移ろいに敏感に対応していることが分かります。
 かつてこの欄で「聖書の絶対性と神学の相対性」を記したことがあります。神学は時代の移ろいで変化するものであることを自分に言い聞かせたのです。知らないうちに自分たちの神学的な枠を絶対視し、その枠で逆に聖書を読んでしまう傾向があるからです。それだけ自分の神学を変えていくことは難しくなります。
 7年前に書いた原稿を読み直しています。聖書の出来事を中心に折々に自分の神学的アポローチを書いています。その時点ではその記述で十分と思ったのですが、今はそれだけでは何かが足りないと感じています。この7年の間にN.T.ライトの創造から新創造という一大パノラマを知り、『クリスチャンであるとは』を訳出しました。さらに千葉恵教授の『信の哲学』の原稿を読み、ローマ書への意味論的分析を体験しました。
 ある時点から自分の中で神学の脱構築を試みてきました。2千年の神学の歴史と聖書の世界の乖離を経験したからです。それで神学を一度解体しないと次に進めないと分かったからです。解体しても聖書は変わらないからです。ただ解体して次にどのようなことが展開するのかは余り見えていませんでした。今でも明確ではないのですが、ただ聖書にどのように接したら良いのかについて、少しでも責任をもって態度表明していく必要を感じています。単なる再構築では繰り返しになります。
 その責任のことを、N.T.ライトの次の書Virtue Rebornの訳出を試み、「徳」のテーマを確認し、千葉教授の「信の哲学」での心の根底での「信」の認知的側面と人格的側面の調和の可能性を知ったことで、より身近に感じるようになりました。
 年が変わってしばし居心地の悪さを感じています。新しいチャレンジをいただいているのかも知れません。今までの繰り返しでは対応できない状況になっているからです。それは時代の移ろいであり、それに伴う神への責任と言えそうです。
 上沼昌雄記

「文体のネジを締める村上春樹」2018年1月22日(月)

 暮れにカズオ・イシグロのことを書きました。そして、印象深い『日の名残り』を再読しました。年が明けて、ポール・オースターの不思議な『幻影の書』も再読しました。どちらも翻訳ですが、それぞれの雰囲気が余すことなく伝わってきます。それでも日本語で直接に書かれたもので文章を味わいたくて、村上春樹の『スプートニクの恋人』を読み出しました。何度も読んでストーリーは分かっているので、文章をじっくり追いながら読むことにしました。ある対談でこの小説の文体のことを本人が語っているからです。
 ともかく読みながら、こんな文章は絶対に書けないという思いと、それでもこのような書き方であれば自分なりに書けると思ったことを思い出しました。それで文章を書き、本も書くようになったからです。初めにそのように思うようになったのは、アイルランドへの村上春樹の紀行文でした。夜ホテルから抜け出して、近くのパブのカウンターで本を読んでいるときに、馴染みの客と思われる初老の紳士がカウンターに近づいて、無言でコインを置き、無言のまま差し出されたグラスを時間をかけ、思いにふけ、静かに飲み干して立ち去っていく情景を記している文章に出合ったときでした。
 その件を何度も読み、うならされ、絶対にこんな文章は書けないと思ったのと、それでもこのように目に前に展開されていること、あるいは目の中で展開さえていることを、最大限に丁寧に書いていくことであったら、自分なりにそれはできると思わされたのです。その紳士の描写には何も難しい言葉も表現も使われていません。それでいて見事にその情景を描いています。それで恥の掻きついでに文章を書くようになりました。村上春樹が小説を書く前にしていたスナックに通っていたという友人の励ましもありました。
 『スプートニクの恋人』は徹底的にネジを締めた小説と、村上春樹が言っています。ストーリーはどこにもたどり着かないもので、ただ文体を煮詰めることに腐心したことを認めています。「文体の隙をなくし、よじれをなくし、たるみをなくす。つまり、文体のフィットネス」と明言しています。という著者の意図が分かって読み出すと、陳腐な言い方なのですが、全く余分な文章がなく、ストーリーも隙間なしに進んでいながら、追い立てられる感じがしません。「比喩を徹底的に多くしよう」と決めていたようで、その比喩の見事さが文章に緩やかさをもたらしています。
 実際に村上春樹がどのようにして文体を締めていったのか、その痕跡をたどることができないのが残念です。それでもその思いで自分の文章を読み直してみると、ネジの緩みがどこにもあることに気づきます。少しでも締め付けてみると文章の流れがスムーズになります。家具や機械のネジを締め直してみると動きがスムーズになるのと同じです。それを一カ所ずつ点検して、隙もよじれもたるみもなくなった『スプートニクの恋人』を読むと、著者の息づかいが伝わってきます。
 妻と聖書を読むときに同じ箇所を日本語と英語で声を出して読むのですが、どうしても日本語で読む方が少しだけ時間がかかることに気づきました。日本語の母音の多さだと妻が言ってくれました。同時にどうしてもリズムに乗れない文章に出合って、読んでいて分からなくなることがあります。聖書翻訳も限りのない作業であると分かります。
 2018年の初めに取りかかっている課題です。
 上沼昌雄記