「心魂の内奥に何が生起するのか」2018年4月12日(木)

 これは千葉先生の新刊『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』(上下巻)の第二部4章「パウロの心身論」の副題の表現です。「内奥」を「ボトム」とも言い換えていますが、私たちの内面の深くで起こっていることの探求であるることが分かります。「信の哲学」と呼ぶ意味合いもそこにあるのでしょう。身体を持つ誰でもが、自分の内面深くで起こっていることに関心があるので「哲学」の可能性が出てくるからです。
 御著書を送っていただいて全体を見回しながら「信(ピスティス)」を哲学の対象とされる千葉先生の意図を少しでも理解したく思いました。私の中には「心魂の内奥」はまさに「闇」ではないかという叫びがあります。この時期に7年前に書き上げたヨナの怒りの原稿を出版してくださる話があり、ヨナがあの魚の腹の中で過ごした闇の記述を何度か読み直しました。一度研究室にお訪ねしているときに、そこはもうどうにもならない世界ではないのでしょうかという私の発言に、千葉先生が真顔で、もっと知的にならないといけないと言われました。
 そんなことがあって、原稿の段階からこの心魂のボトムでの記述に関心を持ってきました。書物として受け取ってからこの4章に至るには、2章でのアリストテレスの『魂論』の展開を確認しなければと思い、しばらく格闘しました。その2章の副題も「不可視なロゴス『魂』の探求」となっています。目次から分かるのは、「魂の根源的態勢」としてアリストテレスの「実践知」とパウロの「信」の関わりの解明になりますが、私の説明能力を超えています。
 それでも分かることは、パウロが「信」を心魂の内奥の根源的態勢をと見なすとしても、その前に「神のピスティス」と「イエス・キリストのピスティス」が神の啓示の自己完結性としてあり、その上で、それに対応するものとして「私たちのピスティス」が分節していることです。その上で総合が次の課題です。この分節を明確にした上での「私たちのピスティス」の心魂のボトムでのあり方の探求なのです。そうでないとこちらの心的動きが優先してしまって、その投影としてテキストを読み込んでしまうからです。アウグスティヌスもルターもそれぞれ内面の信仰理解はずば抜けているのですが、先の分節なしに、テキストを読み込んでしまっていると言えます。
 千葉先生は「神学的枠組みの密輸入」と呼んでいますが、それを避けるための手立てはテキストそのものの解明にあるとします。神のピスティスの解明をし、その上でパウロのピスティスがどのように対応しているかをテキストに沿って解き明かす作業です。こちらの心の動きとは関係なしにと言えるのですが、テキストの解明によって明らかにされるパウロの心魂のボトムでのあり方は、不思議にこちらの心に反響して、納得を与えてくれます。それが知的な作業であると言われたのだと思います。
 千葉先生の書の3章はローマ書1-4章、4章はローマ書5-8章の言語分析です。この4章の初めで、3章を踏まえての展開をまとめています。「これまでの言語分析の成果を踏まえつつ、パウロにおける心魂の様々なエルゴン(働き)に対する言及の分析を通じて、はたして信が心魂のボトムにおいて遂行される神に対する根源的な信任、移譲行為であり、さらにそこから相互の愛や神の観想に至る一切の秩序ある生が生み出されうる魂の根源的態勢であるのかのさらなる探求に向かう。さらに彼の独自の主張として、叡智や霊の刷新がそこにおいて生じる「内なる人間」が提示され、通常の心身論の対象である身体をかかえた自然的存在者の生の原理としての肉を秩序づけるとするが、その統一理論がいかなるものであるかを探求する。」(上巻624頁)
 具体的にローマ書7章での言語分析には今までにない視点が展開されます。「律法」、「肉」、「私」、「うちに住む罪」、「内なる人」、「心(ヌース)の律法」、「罪の律法」、「みじめな人間」とパウロが言い放つ心魂のボトムの発語には細心の注意を払う価値があります。こちらの心魂が対応していくからです。
 上沼昌雄記
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「長雨の後に」2018年4月8日(日)

 ここ北カルフォルニアでも「長雨の後に」という言い回しが珍しいほどに、一昨日金曜日は一日雨が降り続きました。日本での梅雨時の雨降りを思わせるものでした。昨日土曜日の朝まで降りしきりました。午後からは待っていましたとばかりにカルフォルニアの太陽が出てきて、気温も上がってきたようでルイーズと散歩に出ました。
 住まいの下の方に雨降りの時だけ水がたまる池があります。下の方から漏れていくので夏場は枯れてしまうのですが、この長雨の後は、池はあふれていました。その情景を観るのも散歩の目的でした。同時にその池の脇で誰かが、近隣から出てきた枯れ木を燃やしていることが、立ち上る煙から分かりました。池のさらに下方に流れている小川が長雨の後であふれるほどであることを確認して、たき火のところに戻ってきました。
 昨年の3月20日付けで「陽気に誘われて近隣と立ち話を」という書いたのですが、その近隣のスティーブが山のようにたまってきた枯れ木を燃やしていました。冬の間は余り会うこともなく、彼のお母さんのことを心配していたのですが、話が始まった途端に焦燥しきった感じで、お母さんの死に面してのお父さんと家族の対応を事細かに語り出しました。すでに50歳代に達しているスティーズの話にはいつも父親のことが出てます。父親に認めてもらいたいという強い願望と、父親からの精神的に暴力的と言えるほど拒絶です。
 話し上手というか、ともかく身振り手振りで、お母さんの死の日の出来事、その場で父親から浴びせられた罵声、スティーブの一人息子の前での父親の態度、どの場面でも、彼がどれほど父親に認められたいのかが分かり、同時にどのようにしても父親から拒絶されてします状況を繰り返し語ってくれました。完膚なきまでに打ちのめされた姿を観ることになりました。神を信じていて、なお「死の影の谷」を歩んでいるのです。
 ルイーズが彼の話を真剣に受け止め、どのようにしても父親にコントロールされるだけだから距離を置くように繰り返し説得しました。心優しい彼にはそのようなことは考えられなかったようです。私も思いがけなく、「奥さんの話を聞くように」と勧めました。そうしたら彼の奥さんもルイーズと同じように、どのようなことをしても父親にコントロールされだけだから、関わらないようとけんか腰で言っていたと話してくれました。それは彼に一条の光を与えたようでした。
 昨年も彼の家の前で立ち話をしていたときに、近隣の人たちが入れ替わりに立ち寄って会話に加わってくれたのですが、今回も近隣の男性がたき火の煙を観て、飲み物持参で会話に加わってくれました。そういうときはキャンプとか猟の話になり、スティーブも猟が好きですので、嬉しそうに語っていました。そこにもう一人の男性が彼も飲み物持参で参加してきました。しばらく楽しい話が続きましたが、自然に会話のグループが二つに分かれて、私たちはスティーブと話の続きをしました。
 その中身はその前に話したことの確認になったのですが、ともかく距離を置いて、父親の巧みな操作に乗らないようにと、境界線を明確にすることで逆にこれ以上コントロールされない意思表示をするように励ましました。彼の奥さんも同じように思っていることを確認して、本人もようやく納得したようでした。続いて祈っていることを伝えて、すでに暗くなりかけているその場を後にしました。
 彼の話の中で父親も同じような環境で育ってきたようで、同じようなことが下の弟さんにも現れているようですが、スティーブはその繰り返しはしたくないとしっかりと自分に言い聞かせています。その通りに彼の一人息子とは兄弟のような麗しい関係を築いています。そんな側面を観てルイーズはいつも励ましています。
 珍しい「長雨の後に」思いがけないタイミングでしたが願っていた会話をいただきました。からだもかなり冷え切ったので、急いで家に駆け込みました。
 上沼昌雄記