「訳語『律法』は」2018年5月31日(木)

 今回日本で中部牧師セミナー、関西凸凹神学会、秋田牧師リトリート、相模大野キリスト教会JWTC集会で、ローマ書3章と7章を取り上げてきました。その両方で使われている「律法」の意味合いについて話しながら明確になってきた面と、訳語のことで気になってきたところがあります。今回は3章を取り上げてみます。
 3章ですと何と言っても22節の「イエス・キリストのピスティス」がポイントになりますが、新改訳聖書2017では脚注に別訳「イエス・キリストの真実によって」と入れてきました。それなりに前進とも言えるのですが、態度保留ともとれるところです。それに対して新共同訳の新しい訳「聖書協会共同訳」では本文に「イエス・キリストの真実を通して」と入れて、態度表明を明らかにしているようです。そこは「神の義」の啓示を目的にした箇所であることから、そのように取るべきだとネットで明言しています。
 このことに続く27節で「誇りが取り除かれた」ことの理由として、「どのような種類の律法によって」かと問うところで、新改訳聖書2017では「行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです」と訳出しています。前の版では「原理」と訳していました。脚注ではその可能性を認めています。それに対して聖書協会共同訳では「法則」とそれ以前の訳を踏襲していることが分かります。同時にそれでは「イエス・キリストのピスティス」の理解と合致しないのではと思わされます。
 この27節の律法の意味合いは、初めに21節で、「律法には関わりなく、律法と預言者によって」という律法の区別を踏まえていて、「どの律法によってか」と言われていることです。しかもその「信仰の律法」とは22節の「イエス・キリストのピスティスによる」ところの「信仰」のことなので、「原理」とか「法則」とかは訳せないことです。
 
 それはさらに3章の最後の31節で、「信仰によって律法を無効にするのか」という問いに対して、「決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになるのです」という結論に結びつくことです。「信仰の律法」とは信仰によって確立される律法のことで、それは「行いの律法」、すなわち、文字としてのモーセの律法ではできないことです。それを「原理」「法則」と訳することはできないし、その可能性を認めることもできないことです。それがローマ書理解の混迷をもたらしてきたと言えます。
 この3章でのいわゆる信仰義認のテーマは、こちらが義とされることがメインではなく、そうすることで「神の義」が明らかにされることが目的で、さらに、それは義とされた私たちを通して、神の律法がこの地に果たされていくためであることが分かります。神の義と神の律法の成就は結びついていることと言えます。「原理」「法則」と取ってしまうとその結びつきが切れてしまい、しかもあたかも「私たちの信仰」で律法を確立するかのような意味合いになります。
 律法全体ははガラテヤ書5:14では、「隣人を愛すること」で全うされると言われています。そうすると、律法の成就は「隣人を愛すること」という具体的なことで果たされることが分かります。そこに神の義の現れと取ることができます。パウロはこの結びつきをしっかりと捉えています。長い間混迷していたローマ書理解を整理する道が開かれてきたと言えそうです。
 この2日土曜日の午後に、北大のキャンパスでクラーク聖書研究会とKGK主催で千葉恵教授の講演会が開かれます。そのテーマが「信の哲学ー福音と律法」です。札幌市内の友人の牧師たちも参加してくれます。期待しています。
 上沼昌雄記

「ユーレカ (見つけた!)」2018年5月8日(火)

 カリフォルニアには「ユーレカ」という町やストリートがあります。ウィキペディアでは次のように記されています。「Eureka(エウレカ)はギリシャ語に由来する感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶときに使われる。古代ギリシアの数学者・発明者であるアルキメデスが叫んだとされる言葉である。」素晴らしい意味合いの表現ですが、カリフォルニアでは1849年のゴールドラッシュで、金を「見つけた!」という感嘆詞が由来となって使われています。

 探し求めていたものをようやく見つけ出した時の喜びがこの言葉にはあります。古代ギリシャの学者が自然の成り行きを見つけ出し、そのシステムを言葉で言い表すことができた喜びが伝わってきます。私たちの住まいの近くでは未だに金を探し求めている人たちがいます。見つけたときの喜びは想像できます。

  ユーレカは「見つけた」で過去形なのですが、現在形でパウロがローマ書7章21節で使っていることが分かりました。すでに書かれているのですが、この言葉が使われていることを「見つけた」感じがしています。新改訳では次の通りです。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」多分もっと短く次のようにも言い表せます。「そのように、善をしたいと願っている私に、悪が宿っている律法を見つけます。」
 律法は善なるもので霊的なものであって、それを行いたいという願いはあっても成し遂げることができないで、逆に願っていない悪を行ってしまう自分に気づいて、「自分のうちに、すなわち、私の肉のうちに」(18節)悪が宿っている律法を見つけるのです。「律法」は新改訳では「原理」、新共同訳では「法則」となっているのですが、すぐ後に何度も「律法」のことが出てきますので、それに合わせて「律法」と理解して、しかも23節には「罪の律法」と出てきますので、その意味で取ることができます。
 この意味での律法を見つけるのですが、どこで見つけるかというと「善をしたいと願っている」自分のうちにおいてなのです。自分のうちは、自分の肉のうちなのですが、次節では、さらにその肉のうちの「内なる人」としては「神の律法を喜んでいる」からと語っている、その内なる人を見つけるのです。私にうちに悪が宿っているのですが、さらにそのうちに「内なる人」として神の律法を喜んでいることを見つけるのです。
 この7章での著者であるパウロの語りの筋を追うのは簡単なことではないのですが、この箇所でそれまでの語りのまとめをしているようで、特に「見つけます」と言い切ることで、探し求めていた自分のうちの葛藤の理由を言い当てているかのようです。見つけなければ、そのまま闇に覆われてしまって、そのままで終わってしまうのですが、見つけたことで、そこから抜け出すことができたのです。
 ここでは「見つけます」と現在形なのですが、私たちもどこかで過去形で「ユーレカ」と感嘆詞をあげたように、罪と悪に支配されたままではなく、神の律法に喜んで向かっていく「内なる人」がいることを見つけて、驚き感謝したことです。そこに聖霊が働いて「内なる人」が日々新たにされることを経験できるからです。その喜びの源泉がこの節から伝わってきます。
 上沼昌雄記