「新世代から見るキリスト教は、、、」2018年6月25日(月)

 前回、新世代クリスチャンから見る六つのテーマを、統計的にまとめた本を下に紹介いたしました。その本は、unChristian (by David Kinnaman and Gabe Lyons, Baker Books, 2007) というタイトルのものです。どのように訳するのが良いのか迷いますが、non-Christianであれば、「クリスチャンでない」ですみますが、unChristianは、「真のクリスチャンでない」と意味合いになりそうです。刺激的なタイトルで、ベストセラーになったようです。
 最初の2章で統計的な説明をして、3章から六つのテーマを取り上げて、伝統的なキリスト教理解と新世代クリスチャンの理解を紹介しています。この本の特徴は何と言っても統計に基づいていることです。単に著者たちの視点や経験ではないのです。ここでは参考のために、その六つのテーマについての伝統的と新世代の視点をそのまま紹介します。
1.偽善的である
伝統的:クリスチャンは言うことと、行いとが別々である。
新世代:クリスチャンは自分たちの至らなさを隠すことがなく、まずは行動し、その上で話す。
2.信者の獲得だけに焦点を当てている
伝統的:クリスチャンは本心で生きてなく、信者の獲得だけに焦点を当てている。
新世代:クリスチャンは、人が神に心底変えられるように交わりと状況を整える。
3.同性愛者に蔑視的態度をとる
伝統的:クリスチャンはゲイとレスビアンの同性愛者に蔑視的態度を示す。
新世代:クリスチャンはすべての人に、生活スタイルにかかわらず、同情と愛を示す。
4.過保護である
伝統的:クリスチャンは退屈で、知的でもなく、旧態依然として、現実からかけ離れている。
新世代:クリスチャンは現実に関わり、必要な情報を身に着けて、人々が直面する問題に洗練された方向を提供する。
5.余りにも政治的である
伝統的:クリスチャンはしばし政治的なことに動かられ、右寄りの政策を応援する。
新世代:クリスチャンであるとは、人を尊敬し、聖書的に考え、複雑な問題に解決を見いだすことで特徴付けられる。
6.人を裁きやすい
伝統的:クリスチャンは自負心が強く、すぐに人のあら探しを始める。
新世代:クリスチャンは人の良い点を見つけ、キリストに従う者になるための可能性を認めることで、恵みを示していく。
 これはアメリカの教会の取り組みですが、すでに真剣になされていることが分かります。子供たちの知り合いで、信仰は持っていても、親の信仰スタイルを拒否しているケースを知っていますので納得できます。それでも二世たちは苦しんでいます。親に受け入れられないとうめいています。
 日本でもクリスチャン二世たちに対する取り組みがなされていることを、今回の旅の最後で知ることになりました。戻りたくても戻るところがないという彼らのうめきが聞こえてきます。少なくとも彼らの居場所と生き方を認めてあげることはできます。そのように取り組んでいる教会もあります。
 伝統的なキリスト教がどうして偽善的で、人を裁きやすく、自分たちの殻の中に閉じこもってしまうのかは、前回も書いたのですが、同世代として放っておくことができません。何がそのようにさせてしまっているのか、聖書理解にまで遡って考えさせられます。その意味での責任を感じます。転じて、新世代クリスチャンがもたらす聖書理解に敏感でありたいと願います。
 上沼昌雄記

「新世代クリスチャンは、、、」2018年6月15日(金)

 今回の5週間の日本の旅の最後に、かつて親や教会に反発していたが、今はクリスチャン二世として同じような二世に伝道している方と、しばし意見を交換する機会がありました。親や教会に反発している二世は、戻ろうと思っても戻るところがないとあっさり言われました。なるほどと思うと同時に、クリスチャンとしては他の生き方があるのか分からなかったこともあり、衝撃的でした。
 シカゴに戻り、義樹家族のところに落ち着きました。その家族の行っている教会の32歳の若い牧師の祈りを義樹が聞いていて、20名近い牧師団の祈りとは異なっていることに気づき、N.T.ライトの聖書理解に近いように思うと伝えたら、その通りと会話が弾み、自分の父親がN.T.ライトの翻訳『クリスチャンであるとは』をしていることを話したら、驚いていたことを話してくれました。
 それで日本でのことを話したら、戦後のベビーブーマーの子供たちで1980年代から2000年の初めに生まれた世代をミレニアムズ(世紀末に生まれたので)と呼んで、新世代クリスチャンに対する教会の取り組みを語ってくれました。すでに社会学的な検証もなされていて、それに基づいた書物も出ています。
 ベビーブーマーとミレニアムズのそれぞれのクリスチャンのイメージが異なっていることを統計を下にまとめた本を義樹が紹介してくれました。その詳細に入ることはできないのですが、六つのテーマで新世代クリスチャンが抱いている親たちの教会に対する視点を紹介しています。すなわち伝統的な教会とクリスチャンのことです。
 1.偽善的である
 2.信者の獲得だけに焦点を当てている
 3.同性愛者に蔑視的態度をとる
 4.過保護である
 5.余りにも政治的である
 6.人を裁きやすい
 これらの視点に対して新世代クリスチャンの姿勢を紹介しています。それについては改めて取り上げてみたいと思いますが、どうして伝統的なキリスト教がそのような姿勢を取ってしまうのかに同世代人として関心があります。伝統的にはこの世を離れて霊の世界に生きて、そこでの理想的なあり方が可能なものとしているのですが、新世代クリスチャンはそこに偽善性を見抜いているのでしょう。
 そこには先の32歳の牧師がどこかでN.T.ライトの聖書理解に惹かれるところと無関係ではなさそうです。新天新地の再創造を聖書の目的と設定するときに、この世に対する責任も生まれてきます。「みこころが天になるように、地にもなさせたまえ」と祈る責任が伴ってきます。自分たちだけがこの世から隔離されて特別なものとみることはできないのです。この世に神の民としてのあり方を示していく責任があるのです。
 義樹たちの教会はそのような視点を持った若い牧師を新世代クリスチャンに届くために雇っていると言うことです。日本でもそのことに気づいて、自分の体験を踏まえて新世代クリスチャンを掘り起こしている働きに接することになりました。新世代クリスチャンの誕生は新しい聖書理解をもたらしています。
 上沼昌雄記

「千葉先生の講演を聴く」2018年6月4日(月)

 過ぎる土曜日の午後に北大のキャンパスで1時間半にわたる千葉先生の講演会がありました。ちょうど大学祭で、クラーク像の向かいにある木造の古河講堂の周りも多くの人たちが集っていました。今回の講演会の案内を拡大コピーした立て看板を千葉先生ご自身が立てていました。一人でも多くの人に福音を紹介したいという先生の強い思いが伝わってきました。
 講演会に先立ち、先生ご夫妻が昼食に招いてくださり、総勢10名の方々と南門の目の前にある「博多ぶあいそ」というレストランで、ぶあいそでも美味しいランチをいただきました。友人の竹本牧師と小林牧師も参加してくれました。講演会には、古河講堂の一つの教室でしたが、50名ほど詰めかけてくれました。在校生と卒業生、市内の数名の牧師と何人かの教会員、そして看板を見ての飛び入りもあったようです。
 自己紹介として、クラーク先生のこと、そしてクラーク聖書研究会創設の時のミッシェル宣教師の第二の札幌バンドの思い、ご自身のご家族の内村鑑三との関わりを語られ、それが今回の「信の哲学」へと結びついていることを話してくれました。
 すでに黒板には話される内容が先生によって画面一杯にチャートとして描かれていました。螺旋状に実存の多面性を描き、人間の総合的自己理解、すなわち、人間とはという問いを導入として語り出しました。その人間が生きている時の流れにおいて、律法は過去と未来に葛藤や不安をもたらしても、福音は永遠の相を持って、時との和解を愛という相で関わってくることを、時の矢印で説明してくれました。愛には恐れがなく、自由であるので、永遠の相を持って時との和解が可能であると、興味深い説明をされました。
 神の信、イエスの信の自発性のゆえに、身代わりはあっても、いわゆる刑罰代償ではないと説明されました。「業の律法」が「信の律法」に代わったので、刑罰代償はあり得ないと言います。すなわち、それは「業の律法」に戻ることになると言います。これはローマ書3:21-31での神の義の啓示、イエス・キリストのピスティスによる媒介、律法の意味づけとの関係で「信の哲学」の要にもなります。
 もう一つの興味深いチャートが描かれていました。肉と体と罪、その「外なる人」と、ヌースとしての「内なる人」とそこに働く聖霊との関わりが、白と黄色と赤のチョークで説明されていました。ローマ書7章のことで、今回の日本で私も格闘しながら語ってきたところでしたので、大変助かりました。
 先生の説明は論理的ですが、長い聖句を暗記されていて、それを語るときには霊に満たされ、窓際に向かって歩みながら、目を天に向け、上よりの導きをいただいていることが分かります。大学祭の音楽が外から聞こえてくるのですが、それに負けない声量で福音を説明される先生の姿は、アテネのアレオパゴスで哲学者たちと論じたパウロの姿を想像させるものがありました。
 竹本牧師は、その日の早朝に教会員の方が召され、葬儀の準備のために、昼食会と講義の三分の二を聞かれて帰られたのですが、昨日はこちらがその教会で説教することになり、夕方おいしい回転寿司をいただくまで、当日の感激を語ってくれました。小林牧師はギリシャ語のテキストをコピーしてこられ、ローマ書3:22に関して千葉先生に質問をされていました。
 講義は録音されていますので、何らかの形で聞けるように手配してくれるものと思います。私ももう一度チャートを思い出しながら聴きたいと思います。40年かけた発見的探求のエッセンスを聞くことになりました。1400頁の『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』を90分でまとめ上げたものと言えます。
 大学祭の賑やかなキャンパスでしたが、木造の古河講堂の一室で、ローマ書に記されている神の啓示の奥義がパウロの時代にどのような提示されたのかを彷彿させる貴重なひとときでした。
 上沼昌雄記