「千葉先生の講演を聴く」2018年6月4日(月)

 過ぎる土曜日の午後に北大のキャンパスで1時間半にわたる千葉先生の講演会がありました。ちょうど大学祭で、クラーク像の向かいにある木造の古河講堂の周りも多くの人たちが集っていました。今回の講演会の案内を拡大コピーした立て看板を千葉先生ご自身が立てていました。一人でも多くの人に福音を紹介したいという先生の強い思いが伝わってきました。
 講演会に先立ち、先生ご夫妻が昼食に招いてくださり、総勢10名の方々と南門の目の前にある「博多ぶあいそ」というレストランで、ぶあいそでも美味しいランチをいただきました。友人の竹本牧師と小林牧師も参加してくれました。講演会には、古河講堂の一つの教室でしたが、50名ほど詰めかけてくれました。在校生と卒業生、市内の数名の牧師と何人かの教会員、そして看板を見ての飛び入りもあったようです。
 自己紹介として、クラーク先生のこと、そしてクラーク聖書研究会創設の時のミッシェル宣教師の第二の札幌バンドの思い、ご自身のご家族の内村鑑三との関わりを語られ、それが今回の「信の哲学」へと結びついていることを話してくれました。
 すでに黒板には話される内容が先生によって画面一杯にチャートとして描かれていました。螺旋状に実存の多面性を描き、人間の総合的自己理解、すなわち、人間とはという問いを導入として語り出しました。その人間が生きている時の流れにおいて、律法は過去と未来に葛藤や不安をもたらしても、福音は永遠の相を持って、時との和解を愛という相で関わってくることを、時の矢印で説明してくれました。愛には恐れがなく、自由であるので、永遠の相を持って時との和解が可能であると、興味深い説明をされました。
 神の信、イエスの信の自発性のゆえに、身代わりはあっても、いわゆる刑罰代償ではないと説明されました。「業の律法」が「信の律法」に代わったので、刑罰代償はあり得ないと言います。すなわち、それは「業の律法」に戻ることになると言います。これはローマ書3:21-31での神の義の啓示、イエス・キリストのピスティスによる媒介、律法の意味づけとの関係で「信の哲学」の要にもなります。
 もう一つの興味深いチャートが描かれていました。肉と体と罪、その「外なる人」と、ヌースとしての「内なる人」とそこに働く聖霊との関わりが、白と黄色と赤のチョークで説明されていました。ローマ書7章のことで、今回の日本で私も格闘しながら語ってきたところでしたので、大変助かりました。
 先生の説明は論理的ですが、長い聖句を暗記されていて、それを語るときには霊に満たされ、窓際に向かって歩みながら、目を天に向け、上よりの導きをいただいていることが分かります。大学祭の音楽が外から聞こえてくるのですが、それに負けない声量で福音を説明される先生の姿は、アテネのアレオパゴスで哲学者たちと論じたパウロの姿を想像させるものがありました。
 竹本牧師は、その日の早朝に教会員の方が召され、葬儀の準備のために、昼食会と講義の三分の二を聞かれて帰られたのですが、昨日はこちらがその教会で説教することになり、夕方おいしい回転寿司をいただくまで、当日の感激を語ってくれました。小林牧師はギリシャ語のテキストをコピーしてこられ、ローマ書3:22に関して千葉先生に質問をされていました。
 講義は録音されていますので、何らかの形で聞けるように手配してくれるものと思います。私ももう一度チャートを思い出しながら聴きたいと思います。40年かけた発見的探求のエッセンスを聞くことになりました。1400頁の『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』を90分でまとめ上げたものと言えます。
 大学祭の賑やかなキャンパスでしたが、木造の古河講堂の一室で、ローマ書に記されている神の啓示の奥義がパウロの時代にどのような提示されたのかを彷彿させる貴重なひとときでした。
 上沼昌雄記
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