「信と愛」2018年7月18日(水)

 過ぎる聖日の山の教会の礼拝で、クリスチャンになったら自動的に良い人になるわけでなくて、学び身に着けていかなければならないことを、忍耐と赦しと愛をテーマに、牧師が興味深く語りました。102歳の黒人のスラッツおばあさんの孫に当たる方ですが、メッセージのために多くの時間をさき、深く省察をしていることが分かります。具体的にドライブしていて渋滞に巻き込まれたり、人に抜かれたりするとイライラする自分の性格を取り上げていましたので、誰もが納得していました。
 聴きながらガラテヤ書5章6節の聖句を思い起こしていました。割礼を受けているかどうかが問題ではなくて、「大切なのは愛によって働く信仰です」と言われている信仰と愛の関わりです。「信の哲学」を提唱している千葉先生が繰り返し取り上げられている箇所です。それは「福音と律法」、「信仰と行い」の二千年のキリスト教会で論じられてきたテーマに対して、その調和をもたらすと見ているからです。
 ただ歴史的には、<愛を信仰の原理と目標>に置くトマスのスコラ哲学に対して、ルターはこの聖句を基に「信仰のみ」を提唱し、<信仰が愛の原理と目標>とみたと言われています。確かにどこかで、すべて信仰で解決するかのように教えられ、そのように思って、なんとか頑張ってきたのですが、山の教会の牧師はその限界に気づき、信仰者としての行動の規範を模索しているかのようです。信仰をどれだけ強調しても堂々巡りをしてしまうクリスチャンの現実をしっかりと見つめています。
 千葉先生はこの聖句を「愛を媒介にして実働している信が力強い」と訳して、信と業の調和を見ています。<愛を媒介にして、信が力強く実働している>と言い換えることもできます。「実働している」と、エネルゲイアという名詞形の動詞が使われています。もう一つの名詞形としてはエルゴンがあります。これはロゴスとエルゴンという対で、パウロ自身がローマ書の終わりで自分のなしてきたことが「キリストがロゴスとエルゴンによって成し遂げた」(15:18)ことによっていると、「ことばと行い」がキリストにおいても自分においても調和していることを提示しています。
 この背後には「福音と律法」に関して、「業の律法」、すなわち、モーセによる文字としての律法とは別に、「イエス・キリストのピスティス」を媒介とする「信の律法」の到来があります。イエス・キリストの信の故に神の意志である律法を確認できるからです。そしてその律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することに要約されています。「愛は律法の充足」(13:10)と言われているとおりです。「業の律法」は終わったのですが、「律法の行い」は「信の律法」によって方向性をいただいたのです。律法主義に陥る必要はないのです。
 この意味合いで、私たちがどのような状況でも、神と人を愛することに徹しているときに、信仰が力強く実働していることを確信できます。信仰の力強さが、隣人を愛することで現れ出てくると言えます。その時には、「信仰と行い」が自分のうちで切り離されていないで、むしろ調和していることに納得できます。
 さらに、「信」は神のピスティスですので、神には「愛」が初めから切り離せないで調和していることが分かります。神の義の啓示は、その意味で、神の愛の現れになります。具体的に「イエス・キリストの信」を媒体にして神の愛が現れています。それに対する私たちの信の対応も神の愛に応えていくものとなります。
 愛は御霊の実として約束されていますが、神を愛し隣人を愛することは私たちに許されている自由意志で決断していくことです。そうするときに、「愛」が「信」と同様にすべての人の心魂のボトムに喜びをもたらすことが分かります。信なしには人が生きられないないように、愛なしには人は人として生きられないのです。「信の哲学」が成り立つとすれば、「愛の哲学」も成り立つことになります。
 上沼昌雄記
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