昨年の暮れに「美しく問うー発見者の喜び」(2018年12月31日付)を書きました。パウロがローマ書3章21-26節で福音を発見者の喜びを持って語っていると捉え、「信の哲学」の千葉先生も同じ喜びをもって語っているからです。さらに一昨年の暮れにはストレートに「美しく問う」(2017年12月27日付)と言うことで書きました。「美しく問う」ことがアリストテレスの真理の探究の姿勢から来ていて、パウロも福音の真理の発見を喜んでいるからです。福音の真理はアリストテレスの問いにも充分に答えうるものと観ているのです。
その折りに、振り返って神学の問いは「美しい」ものなのだろうかと疑問に思い、以下のように書きました。<もしかすると、神学的な提示というのは「醜い」ものなのかも知れません。神学的な枠を聖書に「密輸入する」ことで、神の世界をこちら側に引き寄せてしまうためです。こちらの理解をそのまま神の意志のように語り、あたかもアポリアを自分が解いたように思い、それを認めない人を排除することになるからです。神学的理解はドグマになり、足枷となり、時には異端審問の道具にもなるのです。>
千葉先生との対話で多くのことを教えられてきました。そこにもうひとりの牧師が加わってくださり、鼎談のようなやり取りが始まりました。この牧師のメモにある「哲学者と神学者の違い」という項目に目がとまり、哲学の問いと神学の問いの違いを体験的に考えさせられています。というのは最近また出てきた聖書論についてのやり取りを観ていると、どうしても「美しい」と言うより「醜い」もののように思えるからです。
私もかつて聖書論にかかったのですが、結果的にリトマス試験紙にかけるようなことになり反省をしています。そのことを知っている友人の牧師に最近の動きを、うんざりするでしょうが紹介しますとお知らせしました。<確かにうんざりです。ただ気になるのは、皆さんが「福音派」というグループに属することばかり気にしていて、聖書そのものに目が行っていない。「あなたは私のお友だち」、「あなたはお友だちではない」。そんな話ばっかりです。「イエスさまは、そんなこと言わねえだろう!」それに尽きると思うのですが。>
その「聖書そのものに目が行っていない」ということで、一昨年に母校の神学校がある方の聖書論に反論して出した文章で、すでに出来上がっているある神学的な課題の擁護のために聖書論を守る必要があると主張しているのです。その神学的なテーマそのものが聖書から言えるのかどうか自体が問いとして出てきているのに、ただ自分たちの立場を守るために聖書論を声高に叫んでいるようで何とも不思議に思ったことでした。この欄でも触れました。
そして取りも直さず、「聖書そのもの」に関しての「信の哲学」における千葉先生のローマ書の取りかかりは、すでに出来上がっている神学的な枠組みをすべて脇に置いて、テキストの言語分析、意味論的分析に徹していて、すなわち、ただ「美しく問う」ことだけを心がけ、そこでの発見者の喜びをパウロと共有しているのです。特に3章20節から27節におけるいくつかの発見は、N.T.ライトのローマ書の注解書とも異なって、世界的な注目を引き起こすものと思います。昨年の暮れの「美しく問うー発見者の喜び」でその箇所の説明と千葉訳を載せました。
神学の問いが「醜い」とすると、それは同時に神のことばへの不信とも言えます。ライオンを一生懸命に檻の中に閉じ込めようとしているようなものです。またそのことを誇っているです。そのような誇りはローマ書3章27節ですでに取り除かれたと言われています。神のことばをそのまま解き放ったら良いのです。ローマ書はそのようにして結果的にローマ帝国を変えることになったのです。しかし教会がまた閉じ込めてしまったと言えます。
上沼昌雄記