「醜い問い?」2019年2月28日(木)

 昨年の暮れに「美しく問うー発見者の喜び」(2018年12月31日付)を書きました。パウロがローマ書3章21-26節で福音を発見者の喜びを持って語っていると捉え、「信の哲学」の千葉先生も同じ喜びをもって語っているからです。さらに一昨年の暮れにはストレートに「美しく問う」(2017年12月27日付)と言うことで書きました。「美しく問う」ことがアリストテレスの真理の探究の姿勢から来ていて、パウロも福音の真理の発見を喜んでいるからです。福音の真理はアリストテレスの問いにも充分に答えうるものと観ているのです。
 
 その折りに、振り返って神学の問いは「美しい」ものなのだろうかと疑問に思い、以下のように書きました。<もしかすると、神学的な提示というのは「醜い」ものなのかも知れません。神学的な枠を聖書に「密輸入する」ことで、神の世界をこちら側に引き寄せてしまうためです。こちらの理解をそのまま神の意志のように語り、あたかもアポリアを自分が解いたように思い、それを認めない人を排除することになるからです。神学的理解はドグマになり、足枷となり、時には異端審問の道具にもなるのです。>
 
 千葉先生との対話で多くのことを教えられてきました。そこにもうひとりの牧師が加わってくださり、鼎談のようなやり取りが始まりました。この牧師のメモにある「哲学者と神学者の違い」という項目に目がとまり、哲学の問いと神学の問いの違いを体験的に考えさせられています。というのは最近また出てきた聖書論についてのやり取りを観ていると、どうしても「美しい」と言うより「醜い」もののように思えるからです。
 
 私もかつて聖書論にかかったのですが、結果的にリトマス試験紙にかけるようなことになり反省をしています。そのことを知っている友人の牧師に最近の動きを、うんざりするでしょうが紹介しますとお知らせしました。<確かにうんざりです。ただ気になるのは、皆さんが「福音派」というグループに属することばかり気にしていて、聖書そのものに目が行っていない。「あなたは私のお友だち」、「あなたはお友だちではない」。そんな話ばっかりです。「イエスさまは、そんなこと言わねえだろう!」それに尽きると思うのですが。>
 
 その「聖書そのものに目が行っていない」ということで、一昨年に母校の神学校がある方の聖書論に反論して出した文章で、すでに出来上がっているある神学的な課題の擁護のために聖書論を守る必要があると主張しているのです。その神学的なテーマそのものが聖書から言えるのかどうか自体が問いとして出てきているのに、ただ自分たちの立場を守るために聖書論を声高に叫んでいるようで何とも不思議に思ったことでした。この欄でも触れました。
 
 そして取りも直さず、「聖書そのもの」に関しての「信の哲学」における千葉先生のローマ書の取りかかりは、すでに出来上がっている神学的な枠組みをすべて脇に置いて、テキストの言語分析、意味論的分析に徹していて、すなわち、ただ「美しく問う」ことだけを心がけ、そこでの発見者の喜びをパウロと共有しているのです。特に3章20節から27節におけるいくつかの発見は、N.T.ライトのローマ書の注解書とも異なって、世界的な注目を引き起こすものと思います。昨年の暮れの「美しく問うー発見者の喜び」でその箇所の説明と千葉訳を載せました。
 
 神学の問いが「醜い」とすると、それは同時に神のことばへの不信とも言えます。ライオンを一生懸命に檻の中に閉じ込めようとしているようなものです。またそのことを誇っているです。そのような誇りはローマ書3章27節ですでに取り除かれたと言われています。神のことばをそのまま解き放ったら良いのです。ローマ書はそのようにして結果的にローマ帝国を変えることになったのです。しかし教会がまた閉じ込めてしまったと言えます。
 
 上沼昌雄記

「愛によって働く信仰」2019年2月11日(月)

 山の教会の2か月前の役員会のことでした。役員でなくても参加できるのでルイーズと一緒に座りました。牧師は用事でいませんでした。そのためもあったのか、中高生の教会学校を担当している姉妹が、ホームレスや生活に困っているひとのために衣類や身の回りの品を二つほどの部屋に集めて提供している姉妹に向かって、教会学校の部品を置く部屋が必要だから移すようにと、結構高飛車に言い出しました。悪いことに役員会の代表がその姉妹の主人で、それに同調して、街の施設を使った方が良いとか、結構執拗に迫ってきました。
 いわゆる慈善事業と思われることを数年前に始めたときに、私もそれほど関心がなかったのですが、山の教会はこの姉妹の働きで街での評判を獲得してきました。ホームレスの人たちも来るようになったのです。私たちも月一度必要な品を買って献品するようにしました。それに対してのこの夫婦のある面で攻撃に対して、多くの人がそれに反発するようになりました。どこかで自分たちで教会を動かそうとするところがあって、共感を得られないことが積み重なってきました。1月の終わりの教会総会でこの夫婦は教会を去ることを表明しました。
 いわゆる慈善事業をしている姉妹とルイーズが電話で何度か意見を交換していました。その姉妹を応援する意味で私はガラテア書5章6節のみことばを送りました。「キリスト・イエスにあっては、、、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(新改訳3版)昨年7月18日のこの欄「信と愛」でも紹介いたしました。
 シカゴの飛行場に義樹が迎えに来てくれて、40分ほどの車の中で、F3という男性グループの土曜日の朝の運動の後の交わりと祈りの時にホスピタリティのことで話をすることになっているということで、千葉先生の「信の哲学」では「信と愛」とが密接に結びついていることを説明して、その関連の聖句を紹介すると伝えました。金曜日の夜に準備をしているときにその一覧表を渡すことができました。
 土曜日の朝8時半頃戻ってきて、摂氏零下15度にもかかわらず60人ほどの男性が公園に集まったと言うことです。話の内容を説明してくれて、最後にこのガラテア書の「愛によって働く信仰」の聖句を紹介したと言いました。F3の最後にFaithを掲げていますが、キリスト教信仰とは限定していないとのことです。しかし、義樹が自分の立場で自由に語ることができます。その話のレスポンスも何通か届いているようです。
 同じ土曜日の凍り付くような北大の構内で千葉先生の講演会がありました。参加した友人が感想を送ってくれました。<「イエス・キリストの信仰によって完成された神の義と憐れみ」を信じ、人の前での相対的自律性(不完全な連続)に対して「お前は何者なのか」問い続け、「神が義人と見なしてくれた神の前での自己完結性」に感謝し、熱心を持って応答し続ける生き方。「信は実践なり」という千葉先生の言葉の背景が少し理解できたような気がしました。、、、会場は満席の参加者で、学生からの質問も出され「熱い」講演会でした。>
 「信は実践なり」とはまさに「愛によって働く信仰」のことです。信仰と行いとを区別していないことを意味しています。それはまさに中世のトマスと宗教改革のルターの論争点になったのですが、千葉先生の「信の哲学」はその調和を可能にします。
 山の教会の役員会でも福音と慈善を区別し、当然福音宣教が優先するような主張でしたが、両面が必要です。教会はそれに気づいているのです。「信と愛」は神にとっての根本的なあり方であり、人間の心魂にとっても根本的なあり方だからです。当然認知的・人格的に十全な神に対して、認知的・人格的に不十全な人間の格闘としての「信と愛」なのです。
 上沼昌雄記