「渡米30年」2019年7月22日(月)

 先週の木曜日7月17日で渡米して30年になりました。家族はすでにその一ヶ月前に入り、私は日本での残務整理をして一ヶ月後に入りました。アメリカですることが決まっていて渡米したわけではないので、先の分からない移住となりました。妻の家族や親戚が助けてくれたのですが、振り返ると思い切ったことをしたものだと思います。ヨナの訳の分からない旅を振り返ることにもなりました。まだ体力のある40歳代の半ばでした。
 形として自分で小さな家を建てることになり、自分なりのミニストリーを始めることになりました。そのミニストリーも再来年には30年を迎えることになります。家もいろいろなところの修理が入って来ています。30年経った実感を否応なしに味わっています。山火事の心配がありますので、未だに家の周りの草刈り、雑木の清掃に追われています。30年経てばすでに70歳代の半ばに近づいてきますので、体力の勝負になってきています。
 そして当然なのですが、その時に小学生であった3人の子供達もそれぞれ社会人になり、上の二人は家庭を持ち、孫7名をいただくことになりました。子供達のそれぞれの決断に任せていて、その信仰の形態は違うのですが、訪ねたときにはそれぞれの教会の礼拝に一緒に参加するようにしています。子供達を通して同世代の友人たちの信仰のことも耳にすることになり、アメリカでの親からの信仰の継承の実態を知ることもできました。
 家庭を持っている二つの家族とも、配偶書の関わりもあってシカゴ郊外に住んでいるのですが、私たちが出会ったところでもあり、孫達に会いに片道3200キロのドライブをすることになりました。訪ねればそれぞれの家庭にそのまま入り込むことになり、その間は孫達と寝食を共にするので、貴重な祝された時をいただきます。一番上の孫もティーンエイジャーに近づいてきていますので、将来どのような大人になり、どのような社会生活を送るのか、この国の将来は心配でもあります。
 思えば私たちは30年間同じ教会に出席しています。その教会でミニストリーが出発をしたのです。102歳のスラッツおばさんに続いて私たちが教会在籍2番目になりました。結構入れ替わりが激しいのです。ともかくその教会もいろいろなことがありました。日本の教会と同じことが起こっています。そして、教会で出会う人たちの人として苦悩はどこででも同じなのだといろいろな面で実感します。
 
 教会の人たちのために祈るだけでなく、近隣の人たちのためにも祈るようにしています。それが律法の成就に繋がると思うからです。そうすると近隣の人たちとも互いの抱えている課題を分かち合うことになります。誰もが重荷を負って生きていることが分かります。
 そして思うことは、やはりアブラハムへの神の祝福の約束です。すなわち、その祝福の約束はアブラハムのためではなく、子孫とすべての国民のためであるからです。言い換えると、私たちが訳も分からずにアメリカの移住してきたのも、比較しようもないことですが、それで子孫が祝福され、少しでも自分たちの周りの人たちの祝福になれば、それで良しとすべきなのでしょう。
 取りも直さず、この30年同じように旅をしてくださった多くの友に感謝しています。その間いろいろな困難や苦難を少しでも分かち合うことが許されました。そして旅はまだ終わっていません。ただ「天の故郷」を慕いつつ共に歩みたいと願います。
 上沼昌雄記

「やはり、信じる力」2019年7月15日(月)

フリーランスライターの友人が日本からいくつかの資料を送ってくれた中に、この5月の新聞の切り抜きが入っていました。村上春樹の小説家40年を記念して、文庫本になった『騎士団長殺し』を中心としてなされた6回にわたるインタビューでした。それに刺激されて、何度目かになるのですが、単行本『騎士団長殺し』を読み出しました。

前後して雑誌Christianity Todayの記事で、福音的な信仰から不可知論者になったバート・アーマン教授との討論会をした人の記事が載せられていて、息子とのやり取りのなかで妻がその記事を教えてくれて読みました。バート・アーマン教授の本はすでに『書き換えられた聖書』『破綻した神キリスト』として日本語に訳されていいることが分かり、英語版を取り寄せて読み出しました。

続いて千葉教授がご自身の「信の哲学」をいくつかの提題にまとめる作業をされていて、その原稿を読んでいました。これら三者三様の文章を読みながら、すぐには思いつかなかったのですが、どこかで共通項がありそうな感覚になりました。小説の強みは読み出すと止められないことです。『騎士団長殺し』では、最後の場面で「信じること」「信じる力」と言うことが繰り返し出てきます。すでにそのことでこの欄で2回ほど過去2年にわたって取り上げました。

そして取りも直さず、バート・アーマン教授の『破綻した神キリスト』の第1章は「苦難と信仰の危機」と言うことで、ご自分が福音的な信仰からどうして不可知論者になったかを正直に書いています。このテーマでの公開討論会のビデオも観ることができました。神がいるのならばなぜこの地上に苦しみや困難や災害があるのかというテーマにキリスト教が、そして聖書が答えていないというのが、バート・アーマン教授の基本的な姿勢のようです。

『騎士団長殺し』では、その「信じること」のできない人物が登場します。すなわち人を信じることができないので、当然結婚もできません。自分しか信じられないのです。予測可能な状態をいつも設定してその範囲内でしか生きられないのです。それを可能にするだけの経済力を確保します。しかしその人物の登場で、主人公である「私」が「信じる力」をいただき、破綻した結婚生活を回復していく筋道になっています。その筋道で闇との闘いを通らなければなりません。

バート・アーマン教授が信仰者から不可知論者になって行かれた道筋は興味深です。というのは神がいるのにどうしてなお地上に悪が存在するのかについては論理的に納得する回答があるのかと思わされるからです。信仰と不可知論との境目は微妙なところなのだと思うからです。それでもバート・アーマン教授は人間性への信頼は強く持っています。地上で少しでも苦しみがなくなるために慈善事業にも関わっています。

具体的な苦しみの例としてバート・アーマン教授はホロコーストを出してきます。『騎士団長殺し』でもナチス下でのことが闇の水脈のように出てきます。そこにはキリスト教に初めから存在していた反ユダヤ主義があります。ルターも加担していることになります。歴史的に解決しなければならない課題をキリスト教は初めから抱えています。聖書の読みを初めから誤ってきたのかも知れません。

千葉教授が提唱されている「信の哲学」は、神学的な枠組みの介入を避けて、ローマ書のテキストの読みに徹しています。信仰/ピスティスにおける認知的側面と人格的側面を見ています。私たちのあいだでの信頼と誠実/ピスティスが神の真実/ピスティスとイエス・キリストの信実/ピスティスに拠っていることを解き明かしています。その信/ピスティスが「心魂の根源的態勢」として誰にもあることを認めています。その意味で「信の哲学」なのです。クリスチャン信仰は聖霊の助けによって神の真実に対応することでいただけるものです。

「信の哲学」の結論のように千葉教授はよくローマ書14章22-23節を引用します。千葉訳で紹介します。「汝が汝自身の側で持つ信を神の前で持て。識別することがらにおいて自らを審判しない者は祝福されている。しかし、もし食するさいに疑う者は咎められている。というのも、信に基づいていないからである。信に基づかないものごとはすべて罪である。」この信は、頭の論理も肉の柔さも突き抜けて、心魂の根底で、イエス・キリストの信を介して神の信と対面することになります。それは「心魂の根源的態勢」であり、すべてはその信に基づいているのです。

『騎士団長殺し』では、登場人物は自分の決まり切った世界に留まるのですが、主人公はこの「信じる力」で、自分からでて妻と話し合い、結婚生活を回復していくのです。妻を信じることができたのです。千葉教授との最近のやり取りで、「信においてだけ憩います」と記してくださったのですが、疑い深い自分が曲がりなりにもその信の中にいることに驚いています。

上沼昌雄記